焼肉はおいしいな(17日目)

うっかり焼肉のことなんか言及したせいで昨日から焼肉のことばかり考えている。
お願いだから誰かおれを鶯谷園に連れて行ってほしい。

ただ焼肉は一日中考えるに足るテーマではあろう。
うまいタレにうまい肉を漬けて焼けばうまい、という筋肉的方程式の産物であると同時に、その隙間にところどころ得体の知れない深淵がある。

そもそも不思議なのは、「客側が料理を完成させる」というところだ。
肉のポテンシャルを余すところなく発揮するなら、プロが焼いたものを提供された方がベストコンディションに決まっている。
我々の体たらくといったらどうだ。
うっかりトークにうつつを抜かし、珠玉のひと切れをむざむざと見殺しにしてしまったことも一度や二度ではない。
よしんば自分で気をつけていたとしても、同行者の肉の行く末が安泰だとは限らない。
下手すると他人の肉の焼き具合は自分のものより気になるものだ。
お願いだから「炙る程度でお召し上がりくださーい」と供された薄切りロースを網に置きながら「そういや子供何歳だっけ?」などとしゃべり始めないでいただけないか。

そんな数々のお肉台無しリスクを負ってまで、我々はなぜ肉を自分で焼きに行くのだろうか。

仮に、肉が美味いことは保証されている焼肉屋に入って、カルビやロースやタン塩やミノなどの定番ものや黒板に書いてあった今日のおすすめのミスジなんかも頼み、わくわくしながら待っていると、やおら綺麗に焼かれたカルビがコトリと目の前に置かれたとしよう。
どう思うだろうか。
これ絶対美味いよと直感する一方で、どこかがっかりしやしないか。
焼肉のいちばんとっておきのところを奪われたような気持ちになりはしないか。

このとっておきのところ。
それにはおそらく、「焼く」という行為にそなわった根源的な快楽、またそれと相反する静謐さが隠されている。

他の生き物の肉を焼く、というある意味野蛮な行動は、相手を飲み込み自分の肉と同化させることによって征服するという、原始的、背徳的、暴力的な欲求をかなり直截にみたしてくれるものだ。
一方で、炎には弔いのイメージもまたつきまとう。
我々の快楽のために犠牲になった牛たちの脂が炙られて炭の上に滴り落ち、その煙が網からゆらりと立ちのぼっては排気口に強引に吸い寄せられて直線的な軌跡を描いて消えてゆくさまを眺めていると、まるで火葬場で縁者が灰と化すのを待っているような心持ちになる。

その時我々は何を弔っているのだろう?
その「何か」が、暴力的な欲求の向こうにあるのが一瞬垣間見える。
が、ひとたび食べごろに焼きあがった肉をほおばったとたんに、我々はその静けさを忘れて再び欲の脂の海に浸り切るのだ。

かように焼肉には人を狂わせる危険な何かが潜んでいる。
一期は夢よ、ただ狂え、と偉い人も言っていたであろう。
もう一度だけ言う。
お願いだから誰かおれを牛蔵に連れて行ってほしい。

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