三月の水の永劫について(20日目)

朝、寝ぼけ眼でツイッターを見たら、ジョアン・ジルベルトの訃報が流れてきた。
ふだん、語れるほど聴いていないミュージシャンの訃報には反応しない方なのだが、これはRTした。
そのまままた少し寝て、起きて、『三月の水』のCDを引っぱり出してきて、出かける準備をしながら居間でかけた。
たぶん妻も娘も聴いていなかったと思う。
おれだけがそれにひっそり耳を傾け、やっぱり何か得体の知れないものがこの音の中に潜んでいるような気配--とはいってもその姿はまったく見えず聞こえずかすかな残り香だけが鼻をかすめていった程度の--を感じていた。

ジョアン・ジルベルトについて知っていることはほとんどないが、語っておきたいことは少しあるのだ。

この「得体の知れなさ」を解き明かすような文章をどこかで読んだ気がするのだが、思い出せない。
細馬宏通『うたのしくみ』だったかと思ってめくってみたが、これの最初の章で分析されているのは、同じジョアン・ジルベルトでもこの曲ではなく『サンバがサンバであるためには』だった。

でも、この文章にそのヒントがあったのは、改めて考えても間違いない。
ここには彼の歌、ひいてはボサノヴァに1番2番という考え方がほぼないこと、歌詞の繰り返しとギターのコード展開・リズムが円環となってサンバの浮遊感が生まれることが書かれていて、目からウロコが落ちるような気がしたことを覚えている。

かつて自分の中にあったボサノヴァのイメージは、カフェでかかっているような、心地よいBGMとしてのものだった。
だもんで『三月の水』を初めて聴いた時にはわりと面食らった。
そういう表面的な「心地よさ」とは根本的に違う、シンプルなのに異様なまでの曖昧さに満ちた歌。
教科書的に「ボサノヴァの父」として知っていた人が歌っていたのは、自分がボサノヴァだと思っていたものとは本質的に違う歌だった。

そのあと、この曲の歌詞を読んでみてまた面食らった。
カタログを読み上げるようにひたすらに名詞が並ぶ。
木の枝、石ころ、行き止まり。
夜、死、銃。
具象と抽象のあいだを揺らぎながら、あらゆるものが陳列されていく。
歌詞単体で読んでもおそろしく優れた詩だと思ったが、それがジョアン・ジルベルトのギターと歌によって、また異なる色彩を帯びるように感じる

サンバの円環の話を読んだあとだと、その歌詞が歌とギターによって生み出される円環に乗せられることで、ある種の永劫を描き始めるのがわかる。
輪廻にも似た、人の営みの流れ。
おれがこの曲から感じた得体の知れなさは、そもそも人間が垣間見ることしかできないものを垣間見てしまった時に起こる、不完全な認知みたいなものだったんだろうか。

もう少しきちんと、彼の音楽を聴いてみたいと思う。
亡くなったあとになってこういうことを思うのは自分の悪い癖だ。
ただ、彼の歌の永劫の前ではささいなことなのかもしれないが。

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