深田恭子36歳(24日目)

昨晩しこたま酒を飲んでベロベロの状態で帰宅、ワイシャツのまんまベッドにぶっ倒れ明け方頭痛とともに目覚め、あー昨日書き損ねたと思いながらnoteを開いたら、残されていたのが以下の怪文書である。

『深田恭子はおれの1つ上の年である。
彼女はおれが美しいものを美しいと認識するようになってから20年あまりずっと美しい存在として日本に君臨し続けている。

ただでさえ移ろいやすい己の人体というものを自身の表現媒体として活用したいと言われたら、

いま東京ガスのCMを見ても相変わらずフカキョンは美しい。 』

昨晩のおれは何を書こうとしていたんだ。

とりあえず帰りの電車のモニターで深田恭子の出てる東京ガスのCMを見てかわいいと思ったんだろうな、ということはひしひしと伝わる。
なんかそこを起点に小難しいことを考えようとしてめんどくさくなり、フカキョンはかわいい、という結論だけ書いて絶筆となった模様である。
しかしなんでわざわざその年齢を調べて真っ先に書いたのか。
どんどんおっさんになってゆく自分といつまでも綺麗なフカキョンを対比して、フカキョンへの畏敬の念を新たにしていたのだろうか。

Googleの検索履歴を見たら、
『深田恭子』
『深田恭子 書籍』
で検索した痕跡がある。
きちんと年齢を調べたかったのだろう。泥酔しているわりには律儀である。
しかしなぜ書籍。写真集じゃなくて。(結果的にこの検索ワードで出てきたのは写真集ばかりだったが)
酔いが覚めた今となっては深田恭子の書いた本を読みたいとは特段思わないのだけど、おれの無意識は深田恭子の文章を欲していたのだろうか。
そもそも深田恭子は文章を書くのだろうか。深田恭子と文章の距離感がどのくらいなのか、一般人には想像がつかない。

それにしても、改めて彼女の写真を見ると、たしかに自分の1歳年上だとは信じられない。
自分の美しさで何年も飯を食ってきた人の凄みすら感じる。
でもそれ以上のことをあまり言う気にならない。
美しさっていうのは、究極的には見た者からそれ以外の語彙を失わせるものなんだろうか。

逆に、美しい人はどれくらい、どういう言葉を必要とするんだろうか。
こないだの三島由紀夫の話にもつながるが、コンプレックスによって膨らんだ自意識は、その捌け口として言葉を要請することが多い。
中学生の頃から美しくあり続けている深田恭子にも、彼女なりのコンプレックスや苦悩があるのだと思うが、美しさはそういうものもやはり吹っ飛ばしてしまうんだろうか。
美しくない者には永遠にわからない世界である。

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