無理やり字数を埋める技術(21日目)

午前2時。眠い。
色々やっていたらすっかり夜もふけてしまったのだが、いまだに寝られないのはこれを書いていないからである。
早いとこ無理やり字数を稼いで寝る必要がある。
我々はマツコデラックスではないため月曜から夜更かしをしていると色々差し支えるのだ。

無理やり字数を埋める技術、というのは確かに存在して、それはまず今目の前にある問題の答えを探すんじゃなくて、問題そのものをためつすがめつして見るところから始めるのが定石だ。
例えば国語のテストで「この時の主人公の気持ちを答えなさい」という問題があったとして、作中の主人公の気持ちを正面から考えてはいけない。
幹でなく枝葉を見つめることから字数稼ぎは始まるのだ。

まずはその枝葉をひたすら拡大していく。
今回は「気持ちってそもそもなんだ」などと言葉の定義自体を検討する、といった手がある。
例えば辞書を引いてみるとなかなか効果的だ。
「気持ち」という単語は、アプリ版大辞林によれば、
①物事に接したときに生じる、感じや心の中の思い。
②からだのおかれた状態に応じて起こる、快・不快などの感覚。気分。
と定義されているが、それがなぜ「気」を「持つ」という言葉で表されるのか、などとパーツに分解してそれぞれを見つめ、ひたすら考えを引き延ばすことができる。
気は人間に備わる情動を表す言葉だとして、なぜそれを「持つ」のか。
所有するという概念を表す動詞である「持つ」は、支配すること、すなわち制御できる静的な状態に対象をおくことを指すわけだが、となると「気持ち」という単語は、心の動きである気を把持することで一時的に止めたその瞬間のことを指すのだろう。
その「気持ち」を考えるに値するダイナミックな瞬間が、傍線を引かれた場面の主人公には訪れているらしい。
小説を読むというのは常に揺らぐ情動が把持されて固定化される瞬間を追っていく作業なのだろうか。
今何文字くらいまで書いただろうか。

まだ足りないなら今度は拡大でなく縮小して、その問題の外側を勝手に想像するのもいい。
今回なら「それをなぜ出題者は答えさせようとしているのか」、その問いが生まれた土壌に思いを馳せるのだ。
こういった国語の問題の教育的価値は、明確な正解が存在しない度合いが強いこの科目につきまとうテーマだろう。
必然的に正否を判定しないといけないテストで、正解のない事柄をいかにして扱えるのか?
その問いに答えることによって生まれると期待されるものは文脈を読み取る読解力と他人の精神を思いやる想像力だろうが、そもそもテクストから他人の気持ちを「読み取れる」と思うことへの傲慢さを育みはしないか?
いや、逆に、読解に正解はないというある種の綺麗事をこそ疑うべきではないか?
そろそろいい具合の分量に達したのではないか?

このように枝葉をわしゃわしゃこねくりまわして字数を埋めたとき、そこにあるのは単なるゴミなのだろうか。
必ずしもそうではないだろう。
そこにはいわば「逃げの思考」みたいなものが残されている。
目的地にまっすぐ向かわずひたすら迂回し続ける思考。
急がば回れと言うが、えてしてその寄り道の方に予期せぬ何かが眠っているものだ。
このようなそれっぽい結論をまとめて、そもそも字数稼ぎをしていたこと自体を隠滅するのも悪くない。

問題はだんだん調子に乗ってきて無駄に字数を稼ぎすぎることがしばしばあることだ。
明らかに書きすぎだ。
午前2時50分。
寝ます。

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