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父の手記「私の履歴書(3)」

父の手記「私の履歴書(3)」

       岩﨑一雄

結婚

 住宅の普請が終わった昭和二十五年、秋より東京に出稼ぎに行く。田甲(たこう)の叔父が土建の仕事をしていたのでお世話になった。地方では仕事もなく低賃金で、東京ですら失業対策にニコ四と言う労働者がいる頃だった。

(にこよん…〔二個四の意〕〔昭和二十五年ごろ、一日の日当が二四0円であったことから〕当時、公共職業安定所の斡旋で働いていた日雇い労働者の俗称。〔今は死語となった〕…辞書より)

 食糧が高く玄米一升が百円と言う時期で、私等は一日働いて三百円。朝八時より五時迄、力一杯働いて米が三升きり働けなかった。
 今、あれだけ働けば一日一万五千円以上になる。コシヒカリでも今なら六0kg位買える。
 出稼ぎの日は、朝五時に起きて東松山まで自転車で行き東上線に乗る。そのころの東上線は、単線運転で、ガタゴトとぼろ電車で朝夕は寒くて大変で池袋まで一時間半もかかった。
 池袋東口より護国寺行きの路面電車で文京区大塚の東京教育大学(現、筑波大学)へ向かう。

 今、孫達に「おじいさんは東京教育大学へ六、七年通ったよ」と言うと「すげー」と驚くから、「勉強しに通ったんぢゃない。鉄筋コンクリート四階建ての校舎を作りに行ったんだよ」と笑い話にする。

 農作業は耕作面積も少なく、水田の裏作に菜種菜(なたねな)を作り菜種油をしぼったり、堤外の河川敷に大豆を作りこれも油をしぼり、大豆かすは肥料とした。
 稲刈りは湿田のため十一月頃になってうす氷が張ったのを素足でかきながら刈り敷を使い、はんでいを立て、これに稲たばをかけて干す。
 それから高畝にして菜種菜を植えつける。食糧増産のため湿田を乾田にするのに暗渠排水工事をして二毛作田とす。こうして苦難をものともせず、ひたすら収穫の喜びを味わう。

 昭和二十七年、秋も深まった頃、隣村の宮崎實(みのる)さんの妻 おれんさんが嫁の仲人に訪れた。
 前々号にふれたが、祖母 さだが産婆看護婦の国家試験を受けるため斎藤医院に勉強をお世話になった関係で、隣家の宮崎さんへの農作業の手伝いにいったりしていた父母は乗り気で、特に母は「地頭方の豆腐屋ん家(ち)の人達は皆気柄の良いのを知って居る。娘さんもきっと良い子だから嫁に貰え」と言った。

 私は「まだ早い、もう二、三年働いてからでもいい」と言うが、母に「こんなよい縁談はありゃしない、早く貰ったほうがいい」とすすめられ嫁に貰う決心をした。(豆腐屋ん家(ち)と言うのは、昔豆腐作りを家業としていたことから今でも家号のようになっている)

 そして年も改まった昭和二十八年一月十二日結婚式。一月二十四日入籍。新婚旅行は、同年五月十七日、日光東照宮の祭日に旅する。妻は既に懐妊していたので、おなかの芳江と三人で日光は伊達公別館に宿泊する。当時は渇水で中禅寺湖は干上がって、華厳の滝は見られなかった。

 又、私が東京通いをしていたことから東京に映画を見にもいった。「船を見つめていた」と言う『上海帰りのリル』と二本立映画は高峰秀子・佐田啓二主演の『喜びも悲しみも幾歳月』。沖行く船の安全を祈り岬の灯台を守り、妻と二人で灯をともす夫婦愛の映画だった。

 こうして私と妻 きよとの喜びも悲しみも幾歳月が始まったのでした。


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