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「虹の滝」

うたはその名の通り、歌うことが好きだった。信濃の里山に嫁いでもうすぐ40年になる。目は見えないが、晩秋の森のような明るさの中でいつも朗らかに暮らしていた。

ところが、大切なひとと死別してからというもの、声を失ってしまった。かけがえのないひとだった。ある夜、とぎれとぎれの眠りの中で、自分を呼ぶふしぎな声を聞く。

「ウタ ウタ ココヘオイデ」

たえまない雷鳴のような滝のとどろき。そこから聞こえてくる呼び声には、会えるはずのないひとの気配があった。うたはおそれおののいた。でも抗うことはできなかった。会いたかった。

扉をあけて、たったひとりで、白い闇に向かって走り出した。一羽のシロツバメが現れて、翼をはためかせて、うたに道を教えた。

夜が明けていく。うたは、滝つぼの前の大きな岩に立って水しぶきを全身に浴びている。風が木々を揺らし、クロモジの甘く爽やかな香りを運んでくる。

なつかしい声がうたに語りかける。

「ダイジョウブ イツモ ワタシハ ウタノ ナカニイル」

いまや滝は、虹色に発光している。シロツバメが滝をさかのぼる。白い羽根に鮮やかな縞模様がきらめく。七色の光がうたをやさしく包み込む。あのひとの息吹のように。声はくりかえし語りかける。うたの見えない瞳に、そのすべての光景がくっきりと焼きついて…。

気がつくと、うたは里山の家に戻っていた。

「大丈夫。いつも、あなたは、私の中にいる」

とつぶやいた時、失った声が戻ってきたことを知った。そしてうたは、髪にからみついているクロモジの小枝を、そっとつまみとって、いつまでも胸に抱きしめた。

(黒姫童話館ポケットメルヘンコンクール投稿作品)

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