記憶の宮殿
(2010年7月6日記)
五七の桐
4月19日、父が帰ってきました、献体先から遺骨となって。
実家が無人なのでしばらく私の家で預からせてもらうことになりました。私にとってそれはとても嬉しいことでした。父は元気なとき一度も私の家に泊まってくれたことがなかったし、病気になったときも引き取ることは叶わなかったから。
実際には引越しの準備が始まったので、我が家に「泊まってくれた」のは10日ほどのことでしたが、どんなかたちであれ夢がひとつ叶いました。
東京女子医大からの使者を待つあいだ、きわ小母さんとふたりで、父の好きだった手ぶちうどんを茹で、なすのおつゆをつくりました。
「ダシを入れないお醤油の濃い味のが好きだったよね。」
「そうそう茗荷や唐辛子を入れたり。冷汁よりも好きだった。」
おととしの夏、亡くなる直前まで父が丹精込めていた苺の苗の、その遺伝子を継ぐ苺もお供えしました。
たべものと、父のおもいでががっしりと結びついています。
遺骨の返還のときにふたつの感謝状が父に授けられました。ひとつは東京女子医科大学学長から。もうひとつは文部科学大臣からです。感謝状の中央上には、政府の紋章である五七の桐が押されていました。せっかくのものだから額もふさわしいものにしようと思い、マット付きの立派な手作りの額を島根県から取り寄せることにしました。
額といえば実家の和室にはいつも、額に納めた折々の、主にこどもたちの賞状がずらりとかかっていました。奥の間には天皇一家の写真、床の間には北海道の木彫りの熊と鷹のハクセイ、仏間にはご先祖様の遺影とつくりつけのお仏壇と神棚。台所には大黒様。家の裏にはお稲荷様も祀ってあります。
「おいなりさんがだいぶ古くなったから暇ができたら木を彫って色を塗って新しくすんべえとこころづもりしてるんだ。なかなかひまがねえけどもな。」
父の声が聞こえるようです。
かまど小屋もあって外には薪が積んであります。
「なつかしいニッポンの」と見出しがつきそうな家の風景のなかで、父自身も風景の一部になって暮らしていました。五七の桐の感謝状は、だから、おおげさでなく父の生涯最高の勲章なのだろうと思います。
三回忌法要
父の日である6月20日、近い親族だけのこじんまりした法要と納骨を済ませました。施主の甥夫婦にはもうすぐ赤ちゃんが生まれます。父が生きていればひ孫の誕生、とろけるような笑顔を見せてくれたことでしょう。
「一雄さん、見ているよ、きっと。ん、見てるね。」
涙なしの笑顔でそんなことばを交わしました。
法事のあとで懸案の遺産相続のはなしになりました。農業を継ぐ「跡取り」はいないこと、この家に戻ってきて暮らす人もほぼ確実にいないだろうということを確認しました。
無人のいえやしきと農地を維持管理し続けることの難しさ、いざ売ろうとしても売ることは難しいだろうということ、農政の行き先の暗さ、人手に渡ることの淋しさなどを話し合いました。
農地の名義のこと、障害を持つ甥の後見人のことなどで複雑な問題もいくつかありますが、もうそろそろ答えを出して方向を決めなくてはなりません。
こんなとき、父ならなんて言うだろう。どんな顔をするだろう。喜ぶかな。怒るのかな。諦めて微笑んでくれるのかな。
そんなふうに、答えを父に求めてしまう癖が抜けません。
迷路を吹き抜けられるのは、ただ風ばかり。人である私は、ぶつかりながら、迷いながら、答えを探すしかありません。
でも私も意思表明する番がきて、こういいました。
最近お姑さんと同居をはじめたこと、同居にあたって完全な引っ越しをするのか、母のマンションをそのままにして「逃げ道」を残すのかで迷ったこと、結果としてはお互いに完全な引越しにして良かったと思っていることを話しました。その経験から、中途半端な引き伸ばしよりも覚悟を決めて決定したほうが、諦めがつくし諦めがつけば前へ進めると。
お父さんのことも、もう十分やれることはやったと思うから、あきらめて前へ、自分自身の暮らしへと気持ちを切り替えて行きたいの、と言いました。
話し合いの結果、「お墓だけを残して家も農地も整理したい」という甥の判断に、姉夫婦も、下の甥と姪も、私たち夫婦も同意して、それぞれが具体的に動き出すことを約束して解散したのでした。
振り出しに戻る
ところが、不動産業者や町の農業委員会を通して売却の問い合わせを始めるやいなや、近親者から、農地は売ってもしかたないが、いえやしきは残してほしいという声があがり、結論は振り出しに戻ってしまいました。
あの思い出のたくさんつまった家を失うことはふるさとがなくなるということで、なんともいえない淋しさに包まれます。情緒的にはわかりすぎるほどわかりますし「多少の金銭的な負担をしてでも」というお気持ちは有難いのですが、冷静に考えるとやはり残すのは将来にわたって、たいへんな無理があるように思えてなりません。
直系の血筋である甥たちのうちの誰かにゆだねることも、ことばは悪いですが、「犠牲を強いる」ように思えてならないのです。なんとなれば、家屋敷を保存することは、相続人の自由を奪うことにもなりかねません。若い人がそこに暮らし、そこで家族を持ち、農業を営みたいと願うのなら別ですが、現実はそうではないのですから。
私は私の代で解決して次世代に問題を残したくないのです。けれども突き詰めて話せば話すほど、お互いにわかり合える部分より、立場の違いや信用の度合いとか、地域のむかしからのやり方とか、違うところばかりが強調されて、どんどん接点が離れていってしまう・・。
ではどうするのかと、自問しました、焦燥感と危機感を感じつつでしたが、冷静に考えたつもりです。そして話すのが苦手なので手紙を書いて、叔父、叔母、姉、甥に送ったのが以下の文章です。
『父がのこしてくれたものは、強く生きる力です。
逆境にあっても、くじけずに立ち上がる強い意志の力です。
私はそれこそを誇りに思います。
「一雄さんは、たいへんなものを遺してくれた。」と、よく言われます。
このことばのなかには、「後を託せる後継者の不在」
「背負いきれない重荷・負担」
「父の抱き続けた農地を増やし家を築く夢を、父に代わって叶えられる人はいない」
というような、負の色合いが日増しに濃くなっていくように聞こえますし、
それをとても残念に思っています。
「お墓以外のすべての不動産を売却して法廷相続の割合で分配する」という遺産相続の形を、私は望みます。そうすることによって、「一雄さんは、本当に頑張った。たいへん尊いものをみんなに遺してくれた。」という、感謝といとおしさの真情になれることを、私はこころから希望します。
父は生涯を「家運復興の望みを託されて生まれた長男としての役目」に徹しました。その姿は私の目に焼きついて消えることはありません。そのことが父の存在を際立たせていますし、だれにも真似のできない、一途な、たいへんな苦しみの伴うこころざしだったと思います。
けれども、次の世代が同じ夢をみることができないからといって、それを親不孝とは思いません。父の築いてくれた家や土地が人手に渡ることをただ嘆くのではなく、私たちのいまの暮らしを真摯に前向きに生きて行くことこそが、父の望みだと私は信じます。
父が亡くなる約一ヶ月前、父を一度家に帰そうと試みた日がありました。
仕事を休んで駆けつけてくれた孫たちに向かって、父は
「こんなところにいないではやく仕事に帰れ」と諭し、
帰り際には、明晰な確固とした声でこう言いました。
「おめぇらにはでっけえ希望があるんだから・・・挫けるな」と。
私には、それこそが父の願いだと思えるのです。
かれらの足枷になることを甘んじる父ではないと、私には思えるのです。
2010年6月27日 神山朝子』
銀細工の形見箱
いまわたしのてのひらに、銀細工の小箱があります。
4cmほどの楕円形で全体にこまかな浮き彫りが施されています。たわわに実のついた枝につくられた巣のなかで、親鳥が三羽の雛鳥に餌をあげているデザイン「鳥」です。
羽を大きく広げた親鳥の目には希望や新しい始まりを意味するエメラルド(翠玉)が、親鳥に向かってくちばしを大きく広げた雛の頭にはそれぞれ、太陽のエネルギーを持つシトリン(黄水晶)がはめ込まれています。藤色と灰色の正絹紐をつかった手編みの組みひもが蓋と入れものをつないでいます。
作家のSさんに木と鳥の名前をお尋ねしたところ、
『我が家の玄関脇にジューンベリーという木が植えられていて、その木をイメージして創りました。桜の花が終わった頃に、桜によく似た桜よりもさらに繊細ではかなげな美しい花をつけます。名前どおり、6月に赤い実をつけて、それを鳥が食べにくるのです。鳥はヒヨドリだと思います。甘いものが好きな鳥なのだそうです。』というお返事をいただきました。
この銀細工の形見箱はインターネットで見つけました。モーニングジュエリー、愛するひと(ペット)の遺骨や遺髪や遺品を、ペンダントや指輪に封入していつも身につけていたい、そういう気持ちに応える品々のひとつです。
私は普段宝石をつけませんので、いつもはお仏壇に納めてときどきは握って眠れるようなこのかたちに惹かれたのでした。そして同じ組みひもの色で、デザインの異なる形見箱を、叔母と姉と私のおそろいのかたちで制作してもらうことにしたのです。
父をこころから慕い支えになってくれた叔母に贈るのは「朝露」。
八重のオールドローズや牡丹の花をイメージして創られているそうです。薄い花びらが重なっている一輪の花の上に、不運から身を守る神の石とされるブルーレースアゲート(青縞瑪瑙)が三粒、きよらな朝露のように乗っているデザインです。ここにはすでに父の遺骨を納めていつでもお渡しできるように準備してあります。
姉には「紫陽花」を選びました。あじさいのそれぞれの花の中心に、高貴・誠実・心の平和をあらわすアメシスト(紫水晶)がはめ込まれています。紫は穏やかな安らぎを与えてくれる色で、自分らしさ、自由さを求める人にも最適な石なのだそうです。
形見箱が私の元に届いたその日の夜明け、「鳥」に両親の形見を真綿でくるみそっと納めました。13年前に亡くなった母の命のかけらは、赤みがかった色あいで薄く丸みのあるひとひら。2年前に亡くなってつい先日納骨の法要を行なったばかりの、父の命のかけらは、まっすぐで乳白色をしています。父の看取りの床での、分厚く堅くごつい爪も一緒に納めました。
蓋をしてしばらく眺めて「ん。これでよし。」とつぶやいてからそれを手のひらに握ったまま眠りました。
私の体温が移ってだんだん温かくなっていく、持ち重みのする小箱になにか大きなエネルギーを感じながら、朝まで夢も見ずに熟睡しました。
不思議なことに、こんなちいさな箱なのに、父と母につながるすべての物語がここに詰まっているような気がしてきました。
ふと思い出したのは、「記憶の宮殿」という言葉。
『羊たちの沈黙』の続編である『ハンニバル』(トマス・ハリス著)にその記憶の宮殿の描写があります。
天才的な頭脳を持つハンニバル・レクター博士は、記憶の中で千の部屋がある広大な宮殿を構築しています。たとえ体は拘束されていようとも、頭脳の中でこの宮殿の中を自在に歩き回り、その小部屋の一つ一つを訪問するだけで過去のどんな記憶も呼び起こすことができるばかりでなく、過去の記憶の中で生きることさえもできるのです。そこに一歩足を踏み入れれば現実の苦痛も感じないですみます。
もちろん私はそんなずば抜けた能力を持ちませんから、あいまいな記憶と膨大な思いこみと、満たされることも解決することもないだろう喪失感や、引き出しからあふれて片付かないもろもろとで、迷路のような「記憶の小部屋」に過ぎないのですけれども・・・。
それにしても、
「ここにすべての物語が詰まっている」という思いつきはなんて甘美な空想でしょうか。
「もらとりあむ28号 2010年夏草収録」
追記(2023年4月30日)
私の生家は、9年後の2019年4月30日、つまり平成最後の日に、人手に渡りました。田畑はすでに売却されていたので、遺されたのは先祖代々の墓だけとなりました。
その日は姉と一緒に、生家を見納めにいきました。
家の内外は、父が生きていた時のまま時間が止まっていました。主人をなくしたものたちがそこかしこに。写真に撮って、お別れを。
家と地に宿るすべてのいのちたちよ
守り慈しみ育んでくれて
本当にありがとうございました
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