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父の手記「私の履歴書(2)」


私の履歴書(2)


         岩﨑一雄

宿願


 昭和十三年九月一日、荒川の堤防が決壊した。私(当時九才)は、学校で小使をしていた父を迎えに行ってから帰ると、姉と二人で、八畳間に縁台をあげ、その上にすぐ必要な品や食料品等を上げたが、これ位の高さでは水没してしまった。
 昔から我が家と隣は、「高畑家(たかばたけんち)」と言われるように、宅地が高所だったが、それでも中敷居より一尺ばかり上まで洪水がきた。
 隣の政治(まさじ)さんが青年期だったので、米俵(六十kg)を六、七俵、水家(みずやとは水害の時、物を片付けておく高い建物)までかつぎ上げてくれたのを今でもおぼえている。
 父は、学校の片付けがおわり、帰るとすぐ馬を堤防の上まで引いて行ったが、帰りはもう水が来てしまった。火の見櫓(やぐら)の半鐘が乱打され、子供ながらも緊張した。
 屋根屋がきて屋根の葺き替えをした後始末がしてなかったので、母は病気をおして片付けようとして、ハシゴと一緒に流されそうになった所へ父が帰ってきて、すぐ引き上げたから母は助かった。
 家族中が草葺き屋根の屋根裏に避難した。水に浮きたなべを引きよせ、うずら豆の煮物を食べた。朝食を食べてなかったのでほんとうにうまかった。私たちは水害がおそろしくて話もしなかったが、うすぐらい屋根裏で、満一歳の弟、啓二が姉に抱かれて泣いていた。
 祖父が病気だったので、もし家が倒れたり流されたら危険だと思っていた所に、村内の小川浜司さん等が舟で助けにきてくれた。
 西吉見、田甲の山の台地にあるおばさんの家に祖父は避難した。この時草葺き屋根を切り抜き脱出した穴が後述の「屋根のスキー場」と言われた所である。
 祖父、相太郎はその後病気も全快し、小学校の小使に復帰できたが、昭和十七年九月、私が高等科一年の時永眠した。村役場や先生方をはじめ、高等科二年生全部が見送りにきて下さった。どこの小学校も小使はみな「相さん」と思われる位、子供達から親しまれた祖父の代は終わった。

 翌年、私は小学校高等科を卒業した。家が草葺き屋根で屋根屋職人を頼むのが大変だったので、小学校をおわったら屋根屋になれと言って地頭方の万吉さんに弟子入りするよう母が頼みに行った。
 戦時中なので、鎌や鋏が買えなくてはと言って、鴻巣の松葉屋金物店より特別注文で買い入れた。だが万吉さんは先見のある人で「今に草葺き屋根屋はいらなくなる時代がくるかも知れない。弟子入りして三年、年期奉公するより、今は今の手間賃を取ったほうがいい。」と言い弟子入りをことわった。

 私の家では農地も少なく、百姓の収入だけでは生活するのに大変だった。当時、吉見中で一番人足を雇用していたのが、中曽根の峯 山師(山師とは、山から原木を買いとり木挽きにかけて製材にする建築業)と、一ツ木の田島棟さんであった。
 棟さんは、家の基礎工事や井戸掘りを業としていた。棟さんの妻、もとちゃんは蚊斗谷(かばかりや)からの親戚で、私とはいとこの間柄なので、ここで働くことにした。
 牛車曳きだけでなく、飼い葉切りから厩(うまや)肥え取りから便所のくみとりと骨身を惜しまず働いた。
 棟さんより働きぶりを認められ、十円の約束の所十五円の日当を貰った。又、西吉見村の道路の悪い所へ牛車を曳いて言った時など、この家の主人は東京より疎開してきていたので、円が封鎖で証紙の貼ってある十円札を二十円も小遣にもらった。こんな時は最高な気分だがいい時ばかりではなく、牛車に井戸側(いどがわ)(コンクリートの枠)を積み込む時など、背骨がかけてしまうんぢゃないかと思う程重かった。
 冬でも荒川の水の中より砂利ふるきの仕事もした。重労働だけに賃金にもなった。母の実家の蚊斗谷のおばあさんに、「にしゃあ いい金取っているっていいなあ おらがの幸(ゆき)は安給料でだめだあー」と言われ有頂天になったものだった。いとこの幸男さんは衣類が支給されるからと鉄道員になっていた。

 小学校の時、新田坂(しんでんさか)に兵隊送りとか学校の運動場に砂運び又は報国農場など行くのに、私の家の前の道路を通る時、「岩﨑の家の屋根にはスキー場がある」などと仲間から、からかわれたものだった。(水害の脱出穴は、お金がないのでそこだけしか補修できなかった。次の葺き替えの時には、逆にもったいないからそこだけ手をつけなかった。だからいつまでも一筋色の違う場所が残り、まるでスキー場のジャンプ台の様だった。)
 家がぼろうちだったのでこんなことを言われ、くやしくてたまらなかった。努力してなんとか人並みな家を建てようと肝に銘じて、と言うような少年時代を送ったものだった。

 燈火菅制下におかれた大東亜戦争末期には、農業資材も不足し農家でも食料難となった。東京大空襲等本土も廃墟と化した。
 七月下旬、B29が本土上空を我物顔に飛びかう日、明秋野(めいしゅうや)の豆畑の草取りに行った。空襲警報のサイレンが鳴ったので、牛車を走らせ潮見橋の所にくるとものすごい機関銃の音がした。
 流れのおばやん家(ち)の前に牛車を止め避難しようとしたら、東家(ひがしんち)の人々が手を横に振り「きてはだめだ、向こうに行け」と言って入れてもらえなかった。男手がないからと思い、何度も手伝いに行っているのだが、自分が危険な時には他人を助けることができない人間の無情を実感した。
 警報が解除になったので見に行ったら、B29を追撃しにきた日本軍機が、B29に打ち落とされ、丸貫(まるぬき)脇の稲田の中に機体が散乱していた。
 八月十四日夜、熊谷が空襲された。空は昼間のように真赤になり、B29がうちの真上を飛びかっていた。うちのうら山に掘った防空壕は、水が入ってしまったので隣家との境の空掘りの中にかくれていた。そして翌日には終戦となった。

 私は、農作業をするのにも様々な工夫をし、新しい試みを心がけてきた。稲も四反ばかりきりなかったが、田に堆肥を入れたりして地力をあげ、苗代もうすぶりにしてずんぐり苗を植えて増収した。うすぶり苗は根張りが良いので苗取りの時、指にまめができてしまうが、自分の信念をまげず頑張ったので少しずつでも暮らしが楽になった。
 弟の啓二や豊も小学生だったがよく家の手伝いをした。田植えの時はなわうえをした。姉は、産婆看護婦の試験を受ける為、鴻巣の看護婦養成所に入ったが、休みの時は家の手伝いにきてくれた。又、小遣もためて家に入れてくれた。
 こうして一家一丸となって働いたので、昭和二十四年、私が二十才の時、宿願の瓦葺き二階建て住宅を新築することが出来た。

「私の履歴書(3)」へ続きます


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