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ぼっとかして

ぼっとかして


母の三回忌に


 2000年12月23日。母の命日がまためぐって来た。
  三回忌としての正式な法事はお盆前に終えていたので、この日は近い親戚が墓参りをし、夕膳を囲み、和やかに世間話、受験話をしてお開きになった。    母の不在は、静かに受け入れられているようだった。後片付けを姉たちとしながら、
「“ところまんだら”って覚えてる?」
「“てんがりばんがり”って言ってたよね?」
と方言の話で盛りあがった。祖父母や両親の使っていたなつかしくあったかいそのニュアンス・・・。

「ところまんだら」は所どころ、「てんがりばんがり」は順順に、という意味だ。「おっぺす(押す)」「おっぴらく(あふれる)」「かっつぁばく(破く)」など大げさな言い回し。腰が重い人の事は「くるしがり」と言っていた。長野の「ずくなし」のようなものか。
 「朝子の分」と言うところを「朝子がブニ」って「ニ」にアクセントを置いて言うんだよね、と私がいい、また皆で笑った。


「お母さんが」中の姉がふいに言った「死んだ気がしないんよ・・・」

 そうなんだ。皆もうすっかり立ち直ったようなふるまいをしているけれど、胸の中では今も母の死を納得できないでいる。答えのないなぜというからまわりをくり返している。

 ぼっとかして(もしかして、ひょっとして)今ここに母がいたって何の不思議もない。そしたら母の口ぐせの
「せっせとやらねぃと日が暮れちまうゎ」が聞けただろう。
片づけが一段落すればしたで、
「ひとやすみすんべぃ、菜っぱがうんまく漬ったし、ぼたもちも上手にできたから食べてみやっせ」
と労をねぎらってくれたろう。

 今は父や姉が母に代わって苺自慢をし、米づくりの話などしてくれる。まるで母親がするように、「これは朝子がブニだかんな」と米や野菜を持たせてくれる。
 71才になった父は肩痛で補聴器をする時も左手で右手を支える程なのに、働く手を片時も休めようとしない。新しい農法を試み、毎日を精一杯頑張っている。
 上の姉は重複障害を持つ次男の出産をきっかけに、通所施設を立ち上げ、そのまとめ役をこなしながら、父と農業をして多忙な日々を送る。
 中の姉も元気に働いている。そして私も。

 「時」は確かに、心の傷をいやしてくれるものだと思う。そして折々に小さなとびきり上質な、何かを残していってくれる。苦しんだ時間にも何かしらの意味があったのだと気づかせてくれる。


近い風景


「お母さん、自殺って犯罪だよね」
 つい最近、小6の息子が急に言った。確認を求める口調だった。
「そうだね、悪い事だよ」って答えれば良いと頭ではわかるのだが、ストレートに返事ができなかった。

 悪とか罪とかいわれるとなんとなく違う気がして・・・自分の母親を否定し責める資格なんて私にはない気がして・・・。子どもの質問にすら、動揺してしまうような、あいまいでこじれた部分、そこに触れられると、やめて、放っておいて、と悲鳴をあげてしまうような核心が私の中にある。

 それはブラックホールのような暗闇で、マイナスのエネルギーが充満している。そこから声が聞こえる。
“母親が死んだのはお前のせいだ”
“遅かれ早かれお前も母親と同じことをすることになる”
という声が、私の無力さを、私の価値の無さをあばきたてる。

 もちろん、これは現実でないし、幻聴でもない。母の死以来、ずっと消えずにいる恐怖に近い不安のイメージとしての声である。それはいくつかの出来事の重なりの中で、はっきりした形を持ってきた。


 今から考えると、12月に入ってから母はふさぎ込んでいた。話す内容も妙に気がかりになるような“なんかちょっとやばいな”と思う所があった、と思う。
 でも母は普段から心にためこまずに心配事も体の不調もよく口にする人だったから、寝ついたわけでなく、苺の出荷も家事もこなしているようだったから、いつもの事かなって思っていた。
 私の方も年末は一番忙しく、電話していても気があせってしまい聞き役ができなかった。

 母の訴え…体が冷える。眠れない。食べる気がしない。息が苦しい。「荒川に入っちゃえば見つからない」そんな言葉を冗談のように軽く口にした事もあった。母はS・O・Sを出していたのだ。私がもっと真剣に受けとめていれば、会ってゆっくり聞いてやれば良かった。
 あんなこと言わなきゃ良かった、あんなことしなきゃ良かった、という後悔に、もみくちゃにされてしまう。

 23日の朝が来て、決定的に、もうとり返しのつかないという絶望に打ちのめされてしまった。覚悟の上の自殺だったのかどうかもわからない。病院で出された複数の痛み止めと、神経安定剤と眠剤によって、意識が朦朧として、誤って、苺畑へおりていくつもりで川へと入ってしまったのではないか・・・。

 それを含めてもやはり、状況は自殺を示していて、私たちは、自殺者の遺族ということになってしまった。
 母にしかわからない空白の時間を想像しても辛くなるだけなのについつい考えてしまう。


 納棺の後、側にいた叔父が私に言った。
「朝子ョ、人がどんな風に死ぬかはDNAで生まれた時から決まってるんだよ」と。
 私をなぐさめようとしたのだろう、誰のせいでもないからあきらめなさいと言いたいのだろうと思うが、とても嫌な気がした。
 「叔父さんがそんなことを口にできるのは、自分は血のつながりがなくて、とりあえず安全圏にいるから平気なんでしょ? 血のつながっている私がどう感じるか想像できないの?」
と激しく問い詰めたかった。黙っていたけど…。

 あの頃は父も本当にまいっていて、仕事の仕方も、話すことも、まるでゆっくりゆっくり死へ近づいていっているように感じられて、私は不安だった。橋の夢を見て、泣きながら目覚めることがよくあった。自分の事より、父を失うことを、そしてそれを止められないことを私は恐れていたのだと思う。

 ある日、私の家の庭に、自転車が止めてあった。岩﨑と名が書いてある。胸さわぎを覚えて実家に電話をかけた。何の事はない。父が自転車に乗って来てここに停め、歩いて駅へ行く用事があったのだという。
「なあんだ。声をかけてくれたら車だすのにね。全くお父さんらしいよね、娘にまで気を使うんだから」
と笑って受話器をおいた。
そのとたん、膝が震え、大声で泣きだしていた。

 川岸の母の自転車、激流、母のサンダル・・・・放置された自転車によってフラッシュバックを起こしたのだと思う。


遠い風景

あれは私のせいだったの?
自殺は遺伝なの?

 誰かに聞きたかった。ちがうと言ってほしかった。でも一番近くにいる夫にさえ、固く心を閉ざしていた。

 母の自殺の遠い風景には、妹さんの自殺と、弟さんの未遂事件があり、母自身のノイローゼがあったのかも知れない。母が私を産んだのが昭和33年の冬で、その前年に妹さんが亡くなっている。
 20代の若さで産後の肥立ちが悪く衰弱した母は、一時期ヒステリー状態になり、実家の兄に脳病院へ連れて行かれ電気ショック治療をされたそうだ。
 「ふぬけのようになって、けば(頭髪)が全部逆立っている母チャンを見てぶったまげたよ」
と父が回想していたことがある。
 私の想像でしかないのだけれども、母がそこまで落ち込んでしまったのは妹さんの事件の影響ではなかっただろうか。直後より、一年目ぐらいが、心の傷が深くなることを私も体験しているから・・・・。

 私はうかつにも、自殺者の遺族は、自殺しないものだと思い込んでいた。家族の嘆き、悲しみを身をもって知っているのだから、同じことはしないはずと信じていた。
 もし、人によっては、危険が増すという事に気づいていたら、あるいはもし、うつ状態になった時に、それを見分けて回復への援助をする術を知っていたら、母のS・O・Sを受け止められたかも知れない。そういう力になれなかったことをとても残念に思う。


 最近読んだ、カーラ・ファイン著『さよならも言わずに逝ったあなたへ、-自殺が遺族に残すもの―』の中に、この疑問へのひとつの解答が書かれていた。

 「愛する者に自殺された人間は、自殺も人生のひとつの選択肢であるという考えを、もっとも受け入れやすい心理状態に陥ると言われている。自殺を図った四人にひとりは、身内にも同様に自殺を図った者がいるという。おそらくは抑うつ症などの遺伝的要因により、あるいは家族のメンバーのひとりがとった行動が、他のメンバーの手本となりがちなことから、自殺が特定の家系に流れるひとつの傾向となることが示されている。」「遺族の心の中には大きな不安が生まれる。世代を超えて受け継がれていく“自殺の遺伝子”というものが、本当にあるかもしれないと考えるからだ」

カーラ・ファイン著
『さよならも言わずに逝ったあなたへ、-自殺が遺族に残すもの―』

 不思議に思われるかもしれないが、私はこの本を読んでなんだかホッとした。私がずっと恐れていたこと、口に出さないでやっと耐えていたことを共有し理解することができたからだ。

 私たちの未来にもしもより多くの危険があるのなら、それを避ける方法もあるはずで、多くの人が前むきに生きる選択をしていることを学ぼうと思う。その一歩目は心を開き、感情を出すこと・・・

 自責の念は、そう簡単には晴れないかも知れないが、いつかは晴ればれと自由な世界に入っていける日も来るだろう。

 明るい報告もある。先日、ケンカの弾みで夫に、
「私のせいで母が死んだ気がする」と言った時、
「それは違う」と、すぐ、きっぱり否定してもらったこと。
そしてそれを素直に聞けたという発見。


未来の風景


「母チャンを探して川っぷちを歩いている時、悲しくて、情けなくて、いっそ自分もと何度も思ったが、どうしてもできなかった。母チャンの葬式は何としてもこの手で出してやりたかったし、子や孫たちのことを思うと、自分まで死ぬわけにはいかなかった。いろいろ考えるけれど、結局、母チャンとオレは性質が違うっていうことなんだな・・・」

 父のことばを私は時々思い出す。あれは「私の履歴書」を書いてくれた頃だったと思う。生い立ち、宿願、結婚と過去を見つめ直す作業の中で、自己否定から肯定へと方向転換をし、もう一度父自身の尊厳をとり戻してくれた気がする。

 それに、この父のつぶやきは、私に二つのチャンスを与えてくれた。
一つは、父と共に生きる時間が残されていること。母にはしてやれなかったことを、今度こそしようと思っている。

 もう一つは、危機的な事態が起きた時、マイナスのエネルギーに負けないで立ち向かう力が、私にも受け継がれているということだ。

 大切なもの、良きものからしっかりと手を放さずにいる力

 何が大切かを見分ける力。

 私にはまだまだ遠い道のりだけれど、いつかは、ぼっとかすると、この手でつかむ事ができるかも知れない。


 前述の本の中には、立ち直りのきっかけとしてセラピーを受けたり、サポートグループ(同じ体験を持つ人の集い)に参加した体験が多く語られている。私の場合、こうして書く場を与えてもらって、苦しみながらも感情をことばにする作業をすることが、それに当たっていると思う。
 作業療法とでも言おうか。よどんでいる毒を掃き出すようで、見苦しいあがきを感じるが、そんなことも可能な場として開いていてほしい。

 そして書くことにも増して今の私に元気をくれるのが小説の世界と、友人たち、家族の存在。そして働くこと。

 それらの大切な、かけがえのないものをうっかり手放したりしないで、しっかり握っていられますように…。

                     長女の15才の誕生日に 
             「もらとりあむ 8号 2001年冬草」掲載         

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