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「熱気球ソラと火の神様」

「熱気球ソラと火の神様」

#創作室

日の出時刻の4時半。渡良瀬遊水地(わたらせゆうすいち)は、青白い薄明かりにひっそりと静まりかえっていた。
土手の上では、熱気球チームのスタッフが黒い風船を空に飛ばす。風のチェックだ。風船は5分ほどかけて銀色の空に消えていった。
熱気球パイロットの辰之助さんは、ゲストを振り返ると、風速3メートル以下なので予定通り飛ばせることを力強く告げた。
「今日は予約がおひとりだったので、ソロ気球です。思いきり楽しんでください」

熱気球フリーフライト体験の今日のゲスト、朝子さんは、白髪混じりの短髪に深緑のベレー帽をかぶっている。ウインドブレーカーにトレッキングシューズ。手には軍手。やる気満々だ。ワクワクしながらこの時を待っていたのがヒシヒシと伝わってくる。朝焼けを映した頬が明るく輝いている。

熱気球ソラは、この瞬間が大好きだ。
ソラは、離陸地に選ばれた草地に広げられると、送風機の風をはらんで丸く大きくふくらんでいく。そこへバーナーの炎を噴射されると、空気が暖められて軽くなり、横たわっていたソラはむくむくと立ち上がる。7階建てのマンションと同じくらいになったその姿は大きく堂々として頼もしい。
「さあ、乗ってください‼︎ 」
パイロットの掛け声で朝子さんがバスケットに乗り込むと、熱気球ソラはふわりと浮かび上がった。
どんどん高くへあがっていく。バーナーを燃やして上昇したり、空気を抜いて下降したりしながら、風を読み、風に乗る。高度500メートルから800メートルをゆっくり飛行していく。
さあ、行こう‼︎

遠く筑波の山々は淡くかすみ、雲が薄くたなびいている。蛇行する川。ハート型の谷中湖(やなかこ)をとりまく広大な湿地帯には、葦(あし)の原野がどこまでも続いている。けやきの大木は小さなブロッコリーのようだ。
人家の周辺には田園が広がっている。
例えるなら、小さな長四角の色とりどりのタイルを整然と敷き詰めたような美しさ。人の営みが作った芸術だ。早苗の黄緑や青々した濃い緑。銀色の鏡のような田植え前の水田。黄金色や茶色のところは、刈り入れ前の麦畑だろうか。
水気をたっぷり含んだ大気が、うるうるしている。まるで、静かな湖のボートの上から、澄みきった水を通して水底を眺めているような、清らかでみずみずしい感覚…。

うっとりと景色を眺める朝子さんに、「日本で熱気球に乗るベストシーズンは秋なのですが、6月も独特な雰囲気がありますね」辰之助さんが低い静かな声で話しかけると、朝子さんは深くうなずいて「ふるさとの原風景に包まれる感じですね。それにしても、熱気球がこんなに静かな乗り物だとは思いませんでした。空に浮かんだまま止まっているみたい…」と、つぶやいた。静かな森の中のハンモックに寝そべっているような、自由で解き放たれた感動に包まれていた。

「動いてないように感じますが、今は、時速15キロメートル。ちょうど自転車くらいの速さで飛んでいますよ」
「えー、そうなんですか。
それなのに、向かい風をまったく感じないって不思議。どうしてだろう…」 
「風を感じないのは、熱気球が風と同じ速さで、風と同じ方向に流されているから、なんですよ」
「そうだよ‼︎ わかる⁉︎ ぼくたち風になっているんだ ‼︎」
熱気球ソラは、誇らしそうに胸を張る。
「わかった‼︎ ソラと風と私。ひとつになっているんだね、今、この瞬間」

朝子さんは熱気球ソラと辰之助さんをまぶしそうに見上げた。そして
「去年の今頃は病気の治療がしんどくて、ヘロヘロだったんです。やっと元気に出かけられるようになって。今日は生まれて初めて熱気球に乗れて本当に嬉しかった。空を飛んで風になる夢が叶いました‼︎ だから…」
と朝子さんは、赤ちゃんのようなホワホワの短い髪を撫でながら、晴れ晴れと笑った。
「だからこれからも、やりたいことを見つけたら、ためらわないで、ひとりでも、勇気を出して、やってみようと思っているんです」
ふいに、朝子さんは顔に風を感じた。
ソラは着陸に向けて降下を始めたようだ。

熱気球には飛行機のような車輪はついていない。分厚く編まれた藤(とう)のバスケットが衝撃を吸収しながら着地する。
今日乗っているバスケットは、幅、奥行き、高さが約1・2メートルほどの小さいサイズ。ガスボンベ3本を積むと、パイロットひとり、ゲストひとりでほぼいっぱいだ。
「かんじんなことは、」
と、辰之助さんは、着地の時の受け身のやり方を乗る前に詳しく教えてくれていた。
「何があっても外に飛び出さないこと。ガスボンベやチューブや計器は触らないこと。
この把手を両手でしっかりつかんで、しゃがんで、体の横をバスケットの壁にピタッと押しつける。熱気球が完全に止まるまで、この受け身の体勢をキープしてください。絶対に手を離さないで。こうです。やってみて」
朝子さんはパイロットの指示通りにできるだろうと思っていたが、いざとなると…。
 
「今から急降下します」
地面がどんどん迫ってくる。
地球に吸い込まれていく。
ソラは、重くて、大きくて、速くて、固い、見知らぬ物体になってヒュッと落ちていった。
いざとなると、朝子さんは一瞬足がすくんでもたついてしまった。そこに衝撃がきた。
ゴッ‼︎ ドンッ‼︎ 
「ぅわっ‼︎ (ゴツン‼︎) イテッ‼︎」
把手から手が離れてしまった朝子さんは、バスケットの中で転がってしまった。ベレー帽も脱げてしまった。やれやれ。身をもって体感してみて初めてわかることばかりだ。

「パイロットには、初フライトをやり遂げた人にあることをする決まりがあるんですよ」
辰之助さんはお祝いのシャンパンを朝子さんに渡すと、右手にライターを持って、くつろいだ、おもしろがっている声で話し出した。
「これはずっと昔から続いている、気球乗りの伝統的な儀式です。やらないパイロットもいますが、僕はいつもやるようにしています。
熱気球はバーナーの炎によって飛ぶことができる乗り物です。火がないと飛べません。だから火の神さまに感謝し、火の神さまに捧げるために、ゲストの髪を燃やすのです」
辰之助さんは、朝子さんの髪を数本そっとつまむと、ライターの炎を近づけた。
その神聖な儀式を朝子さんはおごそかな気持ちで受けとめた。
命を託す経験をしたあとでは、そうすることが自然な流れに感じられたからだった。

「火の神さま、ありがとうございました」
朝子さんは目を閉じて祈った。
「いつかまたここへ呼んでください。熱気球ソラと火の神さまのもとへ…」

(黒姫童話会発行『くろひめ』31号(2022年10月発行)掲載)


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