見出し画像

稲穂のお地蔵様①


座右の銘

 いつもの席について天井を見上げると、青いお地蔵様が私を見おろして舌をペロっと出し、いたずらっ子のような笑みを浮かべて、

「いやなことあってもはれる だけどいいことつづくわけない」
と、のたまう。

ひょうきんもののお地蔵様

この不思議なお地蔵様は、息子の小学2年生頃の作品。発泡スチロールを地蔵の形に切り抜いた板に、伸びやかな絵と文字が描かれている。達観と楽観、悟り、あきらめがないまぜになっているような明るさに、私は煮詰まった気分をほぐしてもらう。

じぞう号

それで、「これが私の座右の銘です」と冗談まじりに話している。

辞書を引いたら「座右」とは、常に自分を高めようと心がける人が折りに触れて思い出し、自分を励まし、戒めとする言葉、とあった。そういう本来の意味で、いつも心の中にあるのは、

「すべて、えらぶということの中に飛躍が内在する」
という森先生の言葉である。

 なぜ、どのように大切なものとして定着したかを書きたい、と思いながらも、書けずに来てしまった。

 いいわけはやめよう。
私は、今の私の力の中で書くしかないのだし、書きたい、と思っているのだから。

まず、森先生からいただいたお手紙をワープロでなおす作業から始めよう。

私信としていただいたものであったので、奥様に公表のお許しをいただき、読めないままに流していた部分を読み解くお願いをする。

 先生の、独特な文字。リズム。声に出して読むと、先生が語りかけてくるように感じられる。生き生きした迫力のある言葉がこわれないようにと祈りつつ。そうして写したのが、「私信として 朝子君へ」である。

試験ボイコットと座り込み

 手紙の日付は1980年1月24日で始まり、1月25日で終わっている。この時、大学三年の後期試験中だった。“私たち”は、大学の理事、教授に対する抵抗の形として、試験を受けず、座り込みをしていた。

 いつもなら試験勉強に追われている時間。大学のマル研の部屋にテントを持ち込み、そこで寝泊りして、座りこみ、学生たちに訴えかけ、語りあい、そして本を読み続ける。5人から始まり6人に増えたが、どこまでも少数派の静かな闘いだった。

 『流動』という雑誌に、「県政を揺るがす“小さな紛争”」穂坂久仁雄氏のルポルタージュが残っている。1980年4月号の“80年代大学はいま”という特集のひとつとして、筑波大、京都大と並んで長野大学の二教授処分の問題と、その展開について書かれたものである。

 その中で、学生の闘いとして、“私たち”のこの試験ボイコットにも触れているので、その文章も借りながら短くまとめてみようと思う。


 前野良、中村丈夫両教授は、長野大の前身である、本州大学の時からの先生であったが、大学の再編の折に教授会から不当にパージされ、三年余りもカリキュラムからはずされた後、S54年に解雇された。

 二教授はその不当性を訴え続けた。地位保全を求めて裁判所に訴え、ジャーナリスト、学者、作家などの支援を受けて、大学当局と対立し、全面勝訴を勝ちとるものの、結果としては、長野大で正式に講座を持つことはなかった。

 自主ゼミという形で、ごく一部の学生が、教えを受けていて、その学生が中心となって、現役学生による反対運動が展開された。

 大学の自治、思想、信条の自由の問題ととらえ直して、真相糾明と処分撤回を訴える為、学習会、集会を重ね、ビラをまき、署名を集め、全学集会、学生総会を求めて活動したが、多くの学生をまきこむようなうねりにはついにならなかった。

 その中心にいたKは、いわゆる新左翼系。ヘルメットに手ぬぐい、長髪、手には拡声器と手刷りのアジビラという姿だった。人の前に立てば、「教授会の欺瞞性を徹底的に告発」とか、「断固粉砕せよ」とか「糾弾」とか、テンションの高いアジテーションをしていたが、実際は生真面目で、理論的な人であった。集まる者たちもまた、真面目で、真剣な態度であったと思う。

穂坂久仁雄氏のルポルタージュから抜粋


「主張をみる限り、過激派とはほど遠い、きわめて基礎的な原則論」

「他の大学ならば、試験粉砕をかかげて、よりラディカルな戦術が採用されてもおかしくない時期である。ただ、長野大学の、そして80年代の学生は試験を妨害したり、事務室を封鎖するかわりに自らの試験をボイコットし、ただただ座り込んだのである。」

「彼らの口から不断に聞かされたのは、教官たちに対する不信であり、絶望だった。」

「目的意識の明確な若者が多いことに加え、これだけのミニ大学。教官との交流も自然と濃密となる。だから、不条理な処世をする教官に対する不信は、交流が濃密な分だけ増幅されることになる」

ルポに書かれているように、外に対して攻撃的に向かうというより、内向的に、自分自身の問題としてつきつめて考えていくような空気が確かにあったと思う。

森先生の沈黙の意味

 森先生は、多くの教官が、理事・学長に加担し、不当な処分を容認している中にあって、それをしない立場を一貫してとられていた。沈黙という形で。

 ある時、リーダーのKと数人の学生で、先生の研究室を訪ねた。Kは、質問というより、詰問に近い険しさで答えを求めた。

 先生はひとこと「これは怨念の絡んだ、感情的で個人的な問題なのだ。」ときっぱりといわれた。

「若い君たちがかかわるには、ふさわしくない問題。大学というところの幻想を思い知って傷つくことになろう。この大学には、他にも切実にとりくむべき課題がある。なぜ今、前野、中村か?」

「前野先生も、中村先生も学者として非常に優れており、そういう先生が学生の教育にあたれないのは、どちらにとっても非常に残念な事だが…」

その口調は、日頃の先生と違って寡黙で重かった。

森先生との絆

 怨念という言葉が印象的だった。森先生の沈痛な表情が、私たちが傷つくことを予感しての悲しみだということも、私にはよくわかっていた、と思う。

 私にとって森先生は、大学の中で、誰よりも信頼できるあこがれの人であったのだ。一年生の基礎ゼミで書くことの大切さ、本を読むことのたのしさを知り、その後も聴講を続けていた。

 秋には「モラトリアム第一集」(ゼミ一期生の文集)の編集を企画し、先生の助言と協力をいただいて完成したばかり。
 これが私の文集づくりのスタートとなる。だから、「試験ボイコット宣言」の主張を書く時、(原稿はKが作り、私がそれを清書する、ということが習慣となっていた)心が揺れた。

“言行不一致の標本のような教官による、メシのたねとしての講義のいっさいは、学問そのものを汚す非人間的な冷たいものでしかありません”
と全ての教官にむけて矢を放つことに、抵抗を感じた。

“あなたがた”と“私たち”という対立関係を、森先生と私の中に持ちこむのだけは嫌だと思った。

 理解されなくてもいいから、無視だけはしないでほしいと思って、私は夜、テントの中で、森先生にあてて手紙を書き、「宣言」と共に、直接手渡すことにした。つきつけるようにというより、わずかに残された絆にすがりつくようにして。
 そして、翌日。大学の玄関通路に座る私のひざに、先生は黙って、厚い封筒を置かれた。

「私通として、朝子君へ」とあった。

森先生は私にとって大学そのもの

ずいぶん長い前書きになってしまった。

 返事がいただけたことが、まず嬉しかった。“認める、とは見て心にとめること”と先生はよく話されていた。“愛情の反対語は無関心だよ、朝子君”ということばも思い出す。

 先生は、私の必死の呼びかけを、見、止め、て下さり、深いまなざしで見つめ返して下さった、と確信した。その嬉しさが伝わるだろうか。

次にその内容に驚きを覚えた。

 手紙の中にある「勇気」「自分への厳しさ」「清々しさ」「内的よろこびと誇り」などの言葉が、私たちにむけられたものだとは、にわかには信じ難かった。

 今でも同じだ。私は、先生が書いて下さったような強い、確かな人間ではないと、私自身がよく知っているからだ。

「すべて、えらぶということの中に飛躍が内在するものです」を読んだ時にも、胸につきささるような衝撃を受け、涙があふれた。

私は本当に「選んだ」のだろうか?

「流動」のルポライターでさえ歯がゆくなる位、“過激でない”学生運動だった。だが私にとってこの行動は、大きな分岐点であったと思う。真面目で、親とも教師とも対立したことのない、“良い子供”だった自分が、そこにいる生身の人間に対し、面とむかって異議を申し立てるのだから。

しかも、単位をとるための4月からの努力を犠牲にするのだから。でもだからこそよけいに燃えたのかも知れないし、全力で走り抜ける快感があったのだと思う。

それに正直に言えば、私はKと恋愛していて、Kの世界にまきこまれたかった。Kにとって自分が必要な人間でありたかった。だから、決定的な選択は、彼にゆだねて、自分は従う形をとることが多くなっていったのだ。

それが“やさしさ”なのだと思って。それが、自分の“限界”であり、“自分らしさ”なのだと思って。その二人の関係は今の家庭の中でも固定し、より強固な形で続いている。

私は本当に「選んで生きている」のだろうか?

 森先生のことばを思う時、時には、自己が引き裂かれるような痛みを感じることがある。これは宿題だと思っている。一生の宿題を与えてくださった先生は、私にとって「大学」そのもの、なのかも知れない。

七稲地蔵

 ところで、試験ボイコットを頂点として、なんとなく燃え尽きたというのだろうか、4年生になっても何か集中できないまま春が過ぎた頃、私は金沢の森先生のご自宅を訪ねている。

 夕方、浅野川のほとりを通り、東郭(ひがしくるわ)(今はひがし茶屋街と呼ばれているようだが)を抜けて、卯(う)辰山(たつやま)の方へと、森先生と並んで歩いた。先生は涼しげな和装で、下駄の音が、古い街並みによく似合っていた。

 寿経寺の門前の、七体のお地蔵様に目がとまり、立ち止まって見つめていた。若いお顔だった。「七稲地蔵と呼ばれていて、民衆の嘆きを背負った稲穂の地蔵」だと、旅の本に書いてある。

「安政5年(1858)、入山禁止の卯辰山に2000人の民衆が登り、向かい側に見える金沢城に向けて、米の値段の高騰による窮状を訴えるという“安政の泣き一揆”が起こった。この首謀者として7人が捕まり、5人が処刑、2人は牢死。その供養につくられたのがこの7体の地蔵だ。手には稲穂を抱え、当時の苦難を今に伝えている」

 歩きながら、この地で起きた抵抗の歴史を、先生は私に詳しく話して下さった。

「なんとなく(座り込みをした)あの時の6人の仲間に見えます…」
と小さな声でつぶやくと、先生は黙ってうなずいておられた。

 お地蔵様の表情には、舟越桂の彫刻に感じるような清冽な孤独と遠いまなざしが重なるのだった。

 座り込みをしたあの時、あの二週間の私たちは、確かに、何かを選んだし、理想の高みと、目標のはるかな遠くを見つめていたのだと思いたい。
 そして先生が課して下さった宿題を投げ出さずに心に抱いていたい、と思っている。

―おわりに

 森佳代様には大変ご協力をいただきました。
 そして、長野大学の井出学長様には思いがけず、お便りと講演集を送っていただき、それが、原稿を書く元気になりました。
この場を借りてお二人にお礼を申しあげたいと思います。

             2004年「もらとりあむ15号夏草」に掲載

#稲穂の地蔵様②に続きます


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?