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パラリンピック・ア・ノー・ゴー(東京2020)──「中止だ 中止」を添えて(4)

8月24日に開幕したパラリンピックも日程が進み、日曜日の閉幕が近づいている。世界は何事もないのか、何事もないと無関心を決め込んでいるのだろうか。

8月19日、IPCのアンドリュー・パーソンズ(Andrew Parsons)会長が前日(18日)に隔離滞在先のホテルからJNNの単独インタビューに応じたとして、次のような発言が報じられた。

※以下、IPC会長による発言の和訳について、訳責はいずれも筆者にある。

たとえ東京の感染状況が悪化したとしても、パラリンピックを安全に運営することができる。(Even if the numbers get worse in Tokyo, we still can run safely the Paralympic Games.)

出典:TBS NEWS「IPC会長単独取材『感染状況悪化しても大会は安全に開催できる』」、2021年8月19日、https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4340235.html(2021年8月25日訪問)。

そしてその理由を次のように説明している。

〔…〕なぜなら、パラリンピックのバブルの中と外それぞれの状況の間に相関はないと考えるからだ。([...] because we believe that there's no correlation between what happens outside the bubble of the Paralympic Games and what happens inside the bubble of the Paralympic Games.)

出典:上掲。

動画では上の2つの発言の間の部分が割愛されているらしく、厳密な前後関係を確認することはできない。したがってこの発言について、自己の主張の基盤に自己の考えを持ち出すことの無意味さを問うことはできないが、それにしても、「考える(believe)」ことに基づく説明に一体どれほどの説得力があるのか。

ここでもまた、安易な「安全」が口にされている。バブルの中と外の状況には相関がないと考えると言うが、あまりに視野狭窄的な、あるいは自己都合的な考え方ではないか。この際、バブルの定義の如何は置くとして、問題を、バブルの中か外かという話に矮小化し、グローバル・イベントである東京2020の開催そのものがもたらし得るリスクを度外視している。

また、パーソンズ会長は、遡ってパラリンピック開会式100日前にあたる5月17日にNBC Sportsのインタビューに応じ、インタビュアーであるジミー・ロバーツ(Jimmy Roberts)氏から最後に問われた、この大会が将来、どのように記憶されることを望むかとの質問に切々と熱弁を返しているが、その一部を紹介すると、以下のようなものである。

パンデミック下にある今、ナショナリズムがかつてない高まりを見せ、自然、誰もが自己を優先し、つまり、自分の部下や家族をいかにして守ることができるかと考えるようになっているが、私の信念としては、希望としては、将来的にこの大会を、たとえ危機的状況の中にあっても高い目標を掲げて一致団結し、10億人(筆者註:世界の障害者人口)の人々に再びスポットライトを当て、彼らに希望や機会を提供する事例として思いだしてほしいということだ。(this is a moment where because of pandemic, I think nationalism has been stronger than ever before, people focus on themselves naturally, how can I protect my staff, my family, so I do believe, I want this in the future to be seen as an example even during a situation of crisis, if we work together, with a higher purpose as I mentioned in our case to put one billion persons again into the spotlight, give them hope and opportunity.)

出典:NBC Sports「FULL INTERVIEW: IPC president Parsons talks prep for Tokyo Paralympics」、2021年5月17日、https://www.youtube.com/watch?v=2SUXPli62Kw(2021年9月1日訪問)。

雲の上で差配しているのだろうか。人(むろん障害者を含む)の命や健康の前に優先される高尚な目標はない。

パラリンピック開幕に先立つ19日、「WeThe15」と名付けられた今後10年にわたるキャンペーンが、IPCをはじめとする複数組織の連携によって立ち上げられた。これは世界人口の15%に相当する、何らかの障害を持つ人々を代表する社会包摂活動である。しかし、その15%を当然に含む100%の人々の命と健康が、いかなる活動の名目の下にも、顧みられないでよいという理屈があるだろうか。障害のある人々に限らず、あらゆるマイノリティの人々に関する不平等や不公平は是正されるべきであり、そのための取り組みが必須の課題であることは論を俟たないが、そうした人々をも含む「全体」の命と健康が脅かされる状態を前提とする包摂活動などといものは存在し得ない。この点で、いかなる大義を掲げようと、それが単なる偽善でしかないことは明らかであり、反論を寄せ付けない大義を振りかざす形で押し通す大会開催の口実を言い繕っているに過ぎない。

パーソンズ会長はことあるごとに今回の大会の意義について、まさにパンデミック下に行われる大会であるからこそパラリンピック史上もっとも重要な意味を持つとしている(上に挙げたNBC Sportsのインタビューでもそのように発言している)。しかし、大会開催に反対する意見ではそのパンデミックこそが開催すべきでない最大の理由であるということについて、どう答えるのか。同会長はまた、考え得る安全策を探り、過去1年にわたるスポーツ・イベントの開催実績を踏まえることで安全を確約するための措置を講じることが可能との自信を見せる(上記NBC Sportsのインタビュー内の発言より)が、その根拠はどこにあるのか。何より、他のスポーツ・イベントとは規模が桁違いなのであり、参考にするイベントが世界規模のものだとしても、4年周期の大会ごとに開催地を変える特殊な五輪やパラリンピックとは、開催地条件や開催頻度、練度が全く異なるものであり、管理の体制、その対象、基本的な規模が全く異なる。結局のところ、パラリンピックを外界とは隔絶した別世界であるとアピールするしかない。そして冒頭に挙げたパーソンズ会長の発言であるが、その外界でどれほど新型コロナ感染症の状況が悪化しようと、隔絶したパラリンピックとは無関係だと言っている。大会は、その外界の提供するあらゆる種類の莫大な資源の上に開催されているのであるが。

8月24日に開幕したパラリンピックがつつがなく日程を消化し、閉幕にまで至ったとき、本来は危機対応に転用可能であったはずのあらゆる資源がそこに割かれ、大会そのものや一連の関連事項に起因する直接、間接を問わない影響によって新型コロナ感染症に罹患し、症状に冒され、ひいては命の瀬戸際に立たされる人がいる(のみならず、その対応に昼夜を問わず必死の思いで命をつなぎとめようと奔走している医療従事者もいる)という不公平は見過ごされていいのだろうか。しかもこの感染症は障害の有無に関わりなく人を襲い、むしろ基礎疾患のある人にリスクが大きいというのに。

こうして、現下の危機に不相応な形で演出されたイベントを催し、障害を持ったアスリートの超人的な活躍を見せることが、真に障害者理解の促進につながるのだろうか。そもそものところを履き違えている。

障害の有無に拘らず、スポーツに全身全霊で取り組むアスリートにとって目指すべき場所があることは重要である。そこで自らの限界に挑むアスリートの姿に励まされ、力づけられる人も少なくないはずである。しかしそうであっても、商業主義を隠そうともしないショーのような演出に溺れた大会の意義は問われなければならないし、さらに障害者という点では、健常者の場合と違い、状況はもっと複雑なのではないか。一般の障害者の個々の状況、身体・知的面の制限のみならず、そのほかの物理的な条件、周りの環境、さらに心のありようには、健常者の場合よりもはるかに慎重で細やかな配慮が求められるのではないか。単に情緒に訴えるだけでは、考えることの放棄になる。無闇に感動を煽るような演出が、障害者の脆弱な側面の陰影を濃くするようなものになってはいけない。大会が、障害者間の不公平を高めるものであってはならない。そしてそうした大会が、世界を覆う感染症の流行下に政治主導で開催されるということの問題は、絶対に看過することができない。

エンターテインメント化した大会は、まるでスポーツの意義が感動や歓喜といった受け手側の情緒に訴える短絡的な面に集約されているかのような錯覚を生んでいる。感動を得たいがために観戦するというのでは、本来の意義は完全に失われる。それでもIPCは構わない。感動が巻き起こり、大会が盛り上がることで、障害者への意識が高まったとするのだろう。そのために、予め定めた高尚な目標の意義をもっともらしく繰り返している。大会の価値を誘導的に押し付けている。

障害者の不平等は確かに解消されなければならず、しかもその取り組みは容易でない中、パンデミック下にあっても停滞は許されない。しかしそれは、スポーツだけに為し得ることではない。しかも現状のようなパンデミック下に、むしろパンデミックそのものをさらに大会の意義を強化するものであるとして逆説的に(狡猾に)利用し、そのためのあらゆる代償を徹底的に無視するなどということはあまりに理不尽ではないか。大会の大義を盾に、大会を支える外の世界の状況を自らには無関係なものと決めて度外視してよい理由はない。その時点で、熱弁する大義などはその程度のものだと言っているに等しい。利己的な思考を飾り立てた言葉で覆い隠しているに過ぎない。

障害に対する、他者はもちろん、当事者をも含めた、意識の前向きな変容は日本に限らず、世界が現に負っている大きな課題と言える。

それでも、名も無い誰かの暮らしや命を下敷きに開催される世界規模のメガ・イベントを高尚な目的の下に行われるものとして、現下の危機的な状況に目もくれないというのであれば、大きな欺瞞ではないか。しかもこの危機は、未だ収束の手がかりも見出されていないというのに。

共生の礎は感動から生まれるのでなく、日常の中の地道な共感や人に心を寄せることから生まれるのではないか。そのことを思えば、IPCは大義を訴える前に、それこそ分け隔てなく世界を見渡し、あらゆる人に思いを致したのかと問いたい。そしてホスト・シティをはじめ、政府、スポンサー、あらゆる東京2020関係者は、耳に心地よいIPCの謳い文句に安直に踊らされることなく(あるいは敢えて便乗することなく)、自律的に本質を捉えて、それぞれの裁量を発揮すべきはずなのではないか。余計な彩りに自ら加わり、まるで大きな飛躍に参加しているかのように見せかけるのでなく、世界を危機が覆っている今だからこそ、それぞれの持つ資源を有意義に活用しながら着実な1歩を積み重ねていく努力の方が、よほど包摂性への貢献になるのではないか。「誰も置き去りにしない(no one will be left behind)」という、最近のトレンドとも言えるフレーズを空しい嘘にしないためにも。

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