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Tokyo 2020(東京2020)覚え書き──それでも「中止だ 中止」を添えて(5)

以下は、9月末ごろの、総裁選を間近に控えながら菅総理がまだ内閣トップにあった時点から、東京2020の選手・関係者のコロナ感染による入院者数の修正を組織委員会が公表した直後あたりまでにかけて書いたものだが、もうあまりに放っておいたために、もはや世間的には腐った話題なのかもしれない。しかし、今年のものは今年のうちに処分しておこうと思った次第。

IOCは12月に入って大会が大成功だったとする評価を公表し、20日には大会関係者の話として追加公費負担なしとの見通しが出され、22日の大会総括に向けてばかばかしい話が積み重ねられる一方、札幌は未だ冬季大会の誘致活動を進めている(スポーツ好きと自認する人たちはまた喜んで後押ししているのかな)。日本は税金を湯水のように浪費しながら、事実の隠蔽や文書の改竄、世論の誘導に忙しく、過去のことは反省しないし、現在の問題を歯牙にも掛けず、未来が明るいように演出するだけ。日毎の懸案は足が早く、それに追われるように拙速に過ごしていれば、容易に物事の本質を見失う。以下の内容はタイムリーなものではないかもしれないが、本当に腐っているのはどこの何なのか、誰なのか。

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五輪もパラリンピックも全く観なかった。だから、開催された大会そのものについての感想はない。ただ、盛況だったらしい余波は目にする。

今という時代のせいなのかどうなのか、しかも五輪・パラリンピックに限ったことでもないが、少なくない人が、なんでもいいから、どんなに演出されたものでもいいから、いや、むしろ派手な演出を好みすらして、とにかく大きな感動に酔い痴れたいらしいことを目の当たりにして虚脱感を覚える。莫大な資源の投入された現場で“生み出された”感動の巨大な波に、人は予め決められた方へと押し流されるだけ流されて、様々なことから無意識に、あるいは意識的に目を背けているようにも見えるが、果たしてそうでははないのだろうか。

基本的にスポーツが好きな人間である。五輪やパラリンピックが開催されている期間中、いっさい競技を観ずに過ごすというのは不思議な感じであった。同時に不思議だったのは、観戦したい気持ちが特に湧きもしなかったことである。とても平板な心持ちのまま、スケジュールに余裕を持って過ごした日々であった。ほかにやっているスポーツも、あまりなかったことではあるし。とりあえず、読みかけていた本を何冊か読み終えた。落ち着いた気分で読後感に浸った。それくらいだったか。

五輪やパラリンピックの開催に異を唱える人は単に政権批判がしたいだけだろうという意見を目にしたが、物事を単純化する凄さを見る思いがする。大会を政権批判の口実にしたい(あるいはしている)人がいないなどと言う気はないが、それとは別に、物事を短絡的に捉えることの簡単さを思う。政権批判に五輪を利用するなという趣旨のライターの記事を読んだりもしたが、相手を批判する理屈が全く自らの論理の組み立てに跳ね返ってきていることに無自覚でさえあった。

概してスポーツ・ライターは自らの食い扶持のために、政治に疎いのか、無頓着なのか、甘いのかは知らないが、スポーツのイベントが行われさえすればよいとして、そこに絡む(あらゆる意味での)政治の不合理に無視を決め込む人が多いようである。スポーツが、政治とは無縁の聖域だとでも思いたいのか、そう決め込むことで押し通したいのか、あるいは意図的な加担なのだろうか。さらに言えば、物事を混同した論理の展開も甚だしい場合がある。特に、国際イベントと国内イベント、国策イベントと民間イベント、中長期的なイベントと短期・単発のイベントとをそれぞれ混同して並列に議論する主張には疑問を覚える(いずれであれ、無批判でよいと言っているわけではない)。例えば、麻生大臣の五輪と甲子園とを短絡に比較して朝日を揶揄するような言葉(批判は好きにしたらよいが、どの立場の誰がどんな理屈で言っているのかについては疑問を禁じ得ない)を、嬉々として笠に着る姿勢などは、思考停止もいいところである。メディアの端くれとして矜持もなく、権力に阿りたいのか、なんなのだろうか。

そもそも、このスポーツのグローバル・イベントを国策にしたのは誰だったのか。大会開催を推進した側は、反対の立場を取る側に対して繰り返しもっともらしく、大会を「政争の具にするな」と言い放っていたが、一体、誰が言うのか。少なくとも、このイベントへの政治関与を強めた側が言うことではない。

五輪を政権批判に利用している(あるいはした)人間はいるだろう。しかし、五輪反対を訴える人間全てをその一言に集約できるはずがない。このタイミングでの五輪開催があまりに不合理だと考えるがゆえに、開催に圧倒的な前のめりの姿勢を見せる政府を批判していたという人も少なくないはずであろうし、現に自分がそうだからである。この点は、たとえ相手が自分の賛同する政党(そんなものがあるとして)であろうと、強く反発を覚えている政党であろうと、全く変わらない。五輪開催が不合理だと考えるから、それを推進する政権を批判する。どの集団が政権を担っているかに関わらず、不合理を押し通そうとする政治権力に対して批判を唱えるのは当然のことではないのか。

五輪でもなんでもよいが、政府に対する反対意見は結局のところ、その中身に関係なく、単に政権批判をしたいだけだなどと言う人は一体、何を主張したいのだろうか。相手に単純なラベルを貼ることで嘲るような態度を示したいのか、あるいは自分が権力に迎合的であることを世間に喧伝したいのか。五輪開催に賛成だった、大会を楽しんだと言いたいのならば、そう言えばいいだけであり、反対の意見に、結局のところ、政権批判したいだけだと言うことで、何らかの評価を下したような気分になる必要などない。

なんであれ、批判は物事の輪郭を明確なものにする手段である。それは、何物でもない材から鑿と槌で像を彫り出すように、対象の姿を確かめようとする真剣な試みである(ただし、批判は中傷や攻撃が目的であってはならないし、一定の合理的な基盤を必要とするものであり、対象への批判は鏡写しに自らの考えの問い直しを要求する厄介な作業でもある)。そして批判とは、理不尽に対して否定を突きつける可能性があるものだとしても、必ずしも否定そのもののことではない。特にその対象が権力であるならば、批判は常に、正当性や真実性を見極めるための大切な試みである。批判を向けられた側は自らの主張によって説明責任を果たせばよく、その過程で理解や納得を得るための努力と、必要であるなら議論とを尽くす必要がある。

物事の円環のようなつながりや関係性を無視して、自己の利益、あるいは一部のみへの偏重を追求する、それが今の政治のトップが行っていることである。批判は当然ではないのか。しかし、合理的で誠実な説明をする気もなく、実態を反映しない単純化した文言を繰り返すだけの態度は、短視的で性急な答えを求める人に向けてむしろ成功を収めるかも知れない。短視的な人々は照らし合わせるものを持たないために、相手のどれほど薄っぺらな言葉にも、その厚みを求めることができず(求めようという気すらないであろうし)、考える必要もなく、むしろ好都合にその表面をなぞるだけに終始する。そして、検証されない物事が積み重ねられていくにも拘らず、そのことに気付くことさえできない。

短視的に物事を捉えていれば、目の前の結果だけを求め、それが得られることに満足する。それ以外の、あるいはその短視的に捉えた対象の複雑な別の側面は簡単に見落とされ、その結果を、当然の帰結としていずれ背負うことになる。

無批判の態度であれば、権力を持つ側はこれを簡単に利用するし、その関係は相乗効果を生んで極端なところにまで行き着くことになる。ほとんど同様の状態は、(身近な例である)菅政権で実際に嫌というほど目にした。説明も検証もされないところにある、あらゆる物事の実態は、煙幕を張られたようなものである。その煙幕の向こうに、不均衡な意図は隠し通される。

長野五輪の際に大量の大会関連資料が人知れず焼却されたように、今回も現に隠蔽されている情報はあるだろうし、将来的に人目に触れないよう処分される資料が存在するだろう。調達価格や資金の流れといった財政的な情報はもちろん、フードロスなどの廃棄物処理関連、新型コロナ関連など、隠匿したい領域は山のようにあるのではないか。しかし、大会関係者がこれを秘密裏に永久処分してくれるのなら、考えることを放棄した人にとっては好適である。今さら振り返るという面倒な作業の必要も、これから訪れる痛い現実を直視する必要もない。どうしてこんなことになるのかという反省もなく、過去に根拠を見出すこともできないまま(敢えてしないまま)、苦い現実の前に俯くだけで済むからである。しかしそれでは、今後も同じことの繰り返しに陥ることを避けられない。そして全く同じやり口で搾取されるループに嵌まる。

煽るような謳い文句の下に彩られた舞台の背後に妥当な透明性が確保されない限り、莫大な資源の動く機会はあらゆる意味で簡単に利用される。今回の東京大会の場合で言えば、感動や勇気という曖昧な名目のために、大会の枠の外にある医療や暮らしの基盤を圧迫しながら、政治的にも、資源的にも利用された。きらびやかに演出された大会の強烈な眩しさの前に、一般市民の生活基盤を照らす光はあまりにもささやかであり、政府や都、そして大会関係者から、そんなものはほとんど目に映らないと宣言されたに等しい。

大会はまだ総括されてもいない。あらゆる関係資料が操作されることなく公開されるか、独立機関の監査を適正に受けることが確保されるかしない限り、お手盛りの自画自賛を聞かされる以外に期待はできない。多くの疑問に真っ当に答えが出される可能性など、あり得るだろうか。

今回の東京大会ではどれほどの文書が焼却されるのであろうか。今まさに、処分の最中なのだろうか。

組織委員会によって公表される情報の修正も静かに始まっている。その提供するところの情報によって捉えられていたはずの大会の原型が、少しずつ形を変えていく。これは、当初計画から実際の大会運営までの流れと全く同じものである。まるでちょっとした差異の訂正に過ぎないと言わんばかりの姿勢は誠実なものだろうか。そして訂正後の情報は、本当に正確なものだろうか。我々に検証の手段は残されているのだろうか。長野大会の反省は生かされているのだろうか、透明性を高める方向に? あるいは不透明性を高める方向になのか。

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