見出し画像

ウクライナに心を寄せる──「真珠湾」に言及されて支持を翻意する人の人道意識の欺瞞

アメリカ議会でのゼレンスキー大統領による演説の中で言及された「真珠湾」という言葉に反応して、ウクライナに対する支持を翻意する人がいると聞くが、愕然とする。真珠湾攻撃があげつらわれたように受け取ったということなのだろうが、そういう人たちはまず、ゼレンスキー大統領の演説全体を理解しているのだろうか。

出典:「Zelensky’s address to Congress, annotated」、Zachary B. Wolf, Curt Merrill and Ji Min Lee、CNN、2022年3月16日、https://edition.cnn.com/interactive/2022/03/politics/ukraine-zelensky-congress-speech-annotated。

この「真珠湾」への言及について、松本人志さんが「日本人としては受け入れがたい」と言った場面(「ワイドナショー」、3月20日放送、フジテレビ)が記事になったものを目にしたりもしたが、そのような感覚の中に国を代表されたくはない。同じテレビ上のことでも、対照的に、今回のウクライナ危機を特集する民放番組内でのタモリさんの発言として話題になった、「こうしている間も、大勢の人がウクライナで亡くなっているわけですね、というよりも殺されている(後略)」(報道特番「タモリステーション」、3月18日放送、テレビ朝日系)という言葉の、平らかな、真っ当な問題意識にいくらか息を継げる思いがする。

2月24日の侵攻開始から今この瞬間までに、一体どれほどの命が失われたのだろうか。今日は何人の命が失われ、明日はまた何人の命が失われるのだろうか。そしてこの勘定はいつまで続くのか。

ゼレンスキー大統領がアメリカ議会での演説で「真珠湾」を引き合いに出して自国の空の無防備さを訴え、求めたのはただ1つ、防空のための手立てである。一体これはなんのためだったか。

自国の市民の命と生活を守るためにほかならない。

大統領の責務として自らの引き受けた市民1人ひとりの生命を戦禍にあっても可能な限りつなぐための手段を求め、ウクライナが今、どれほどの脅威に晒されているかを、異なる大陸に位置するアメリカの人々に強い実感を持って認識してもらいたいとして、現実にアメリカが体験した具体的な事例を挙げたものだ。

これを責めるのか。

「真珠湾」への言及について、日本人としては受け入れがたいなどと言い、あるいはこの言及のためにウクライナへの支持を翻意するような非難がましい強面の意見を言うことは、突き詰めれば、恐怖心の裏返しなのだろうか。あるいは、それがただ無関心によるものだとしたら、あまりに想像力がなさすぎる。

侵攻を受けている国の人道危機を傍観することは、プーチンを利することであり、ロシアの行動を後押しすることにつながる。それが望みなのだろうか。やはりどうでもいいという無関心からなのだろうか。これほど簡単に共感する力を失ってしまえるものなのか。それはかつての大戦で、ホロコーストの存在に目も耳も口も閉ざし、言い訳を見つけて思考を止めた人たちとどう違うというのだろうか。この世界に暮らすどこかの誰かという一個の命の存在を忘れて、どうして国や歴史のことなど語れるのだろうか。

ウクライナのことを他国のことだと傲慢な視点で理解し、高みの見物をしようとしても、高みなどどこにもありはしない。ウクライナの惨状はそのまま世界の情勢に直結し、まさにいま我々に降りかかっていることだと切実に認識する必要がある。そこにはまず何よりも、人の命の問題、蹂躙され、軽視される命と生活の問題がある。そして国の安全保障の問題があり、大量破壊兵器の問題があり、移民の問題があり、世界経済の問題があり、食糧安全保障の問題があり、地球環境の問題があり、普遍的な価値の問題があり、世界の未来のことがある。

さらには、今回の軍事侵攻によって、ウクライナが暴力的に、理不尽に、自らの望まない選択をロシアに強いられるようなことがあれば、それは即、世界の情勢に巨大な負の影響をもたらすことになる。ある国が他国の暴力によってその主権の譲歩を強制されるという事態を傍観する態度は、どれほど自分には無関係だと思っていようと、自らの立脚点をも危ういものにすることである。これまで微妙に保たれていた秩序らしきものは一気に形を失い、暴力が優勢に、平和が劣勢に立たされることになりかねない。だからこそ今、世界にはウクライナへの薄っぺらな同情ではなく、連帯が求められている。

しかしそうは言っても、ゼレンスキー大統領の言動のどんな部分であれ、受け手は自由に批判することができる。反感を持ったり、非難したり、それは個人の受け止め方次第であり、全く自由であることは言うまでもない。しかし、だからウクライナへの支持をやめるという飛躍は、どういう理屈で起こるのか。

ゼレンスキー大統領を英雄視する必要はない。そもそも英雄とは何を指すのかがよく分からないし、ゼレンスキー大統領がこの大仰な表現の指すものに厳密に該当するとも思わない。大統領が全く瑕疵のない人かどうかは知りようもなく、知りたいとも思わない。完全無欠な人でなければならないというのなら、それは無理な話だ。ただ、ゼレンスキー大統領が、独立した国家としてのウクライナとその市民を守るために文字通り必死に尽力し、今も求心力を失わずにいる指導者であるということは言えるはずだ。この極限の状態で、その役目を引き受けられる人間が世界の政治家に、皆無だとは言わないまでも、果たしてどれほどいるだろうか。

他方、ゼレンスキー大統領が他国の議会や国際組織の会議の場でどれほど素晴らしい演説を行ったとしても、各国、各国際組織はそのことに直接の影響を受けて、自らの意思決定や具体的な(軍事を含む)支援の中身の決定を行うべきではない。大統領の演説は自国の状況への確かな理解と共感を得るためのものであり、各国、各国際組織はそれを議論の要素に含めることは当然だとしても、自らの意思決定の自律性を左右されることがあってはならない。国や国際組織が適切で十分な意思決定を自律的に行うことができないとしたら、一体そこにどんな意味が残るというのだろうか。

目の前で、今日も人の命が奪われている。そこに死体がある。こうしている間にも消されかけている命と、消されることを止められない命がある。その一方で、我々の選択次第では、消されることを少しでも食い止められるかもしれない命があることを理解したい。このことは、プーチンに欺かれ、無意味な戦場に引き出されて命を失いつづけるロシアの兵士にも言えることである。

この戦争が終わったとき、何千何万の命が奪われ、何千何万の負傷者を数え、何千何万の孤児が生まれ、何千何万の住居や思いでの場所が、大切な品物が失われたことになるのだろう。それはどれも、大きな桁のひとまとまりではない。何千何万の1人ひとりが存在し、何千何万の1つひとつが存在している。何千何万の1人ひとりには男性も女性も、生まれたばかりの子供も、高齢者も、脚の悪い人も、病気の人も、貧しい人も、苦難を乗り越えてきた人も、学生になったばかりの人も、誰かと結婚を約束した人もいる。そのすべての人に、家族や友人、恋人、なんらかの形で関係を紡いだ存在がある。いずれも固有の人生を歩み、何千何万の中のただの「1」になどなり得るはずのない、かけがえのない存在である。大きな数字の前では、そのことが簡単に忘れられる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?