見出し画像

NHK「ロングインタビュー 銃撃事件と日本社会」を観た──安倍晋三銃撃事件

ようやくこの番組を観終えた。初回放送が2022年9月17日だから、1か月弱ほど、寝かせていたことになる。すぐに目を通しかけたものの、冒頭のナレーションに「理不尽に殺害」という文言が聞かれた途端、事件をどのような方向付けで物語ろうとしているのかが疑わしくなり、一気に観る気を失っていた。

言うならば、殺人とは常に理不尽なものである。しかし敢えて「理不尽」と言う時、それは、殺人者の思惑や動機とは真逆の意味を持つ存在を殺人の対象にしたような逆説の事態のこと、あるいは殺すことに何ら意味のない存在をその対象としたような事態、更には、相手を誤ったり、無関係な人間を巻き込んだりしたような事態のことである。

では、今回の事件の場合はどうか。現在までに伝えられる容疑者の動機に限って言えば、事件以降の状況に照らして、驚くほど正鵠を射ていたようにさえ思えてくる。

「理不尽」とはなんだろうか。不当に抑圧されて生きてこなければならなかった容疑者にとっては、その元凶となる存在に加担し、あるいはこれを利用していた政治家こそが理不尽な存在だったのではないか。そしてその中心的役割を率先して果たしていたと思われたのがほかでもない、安倍晋三元首相その人だったのではなかったか。

容疑者の動機と背景を精査、検証することなしに、この事件を簡単に「理不尽」と片付けることはできない。それでもなお「理不尽」と言うのであれば、それはつまるところ、予め先入観や偏見があるということだ。


番組の曖昧な方向性への違和感

違和感は冒頭から感じられた。3人の識者(髙村薫氏、中島岳志氏、ロバート・キャンベル氏)に聴くと言う体裁の番組は、全編を通してボタンの掛け違いのような議論がエゴイスティックに進められるものであった。

都合のよい論理のねじ曲げ、事実の取捨選択に終始する。一般の事例との比較で、都合のよい共通項ばかりを選択的に結んで線にする。

他方、全く共通しない部分を意図的に無視する視点で説明する。もっともらしい事例ばかりを挙げて自説を補強するが、事実確認できない部分を、圧倒的な想像力で自説に都合よく埋め合わせる。

取り留めのない主張ばかりで、なるほど、番組タイトルを「ロングインタビュー」とするほかなかった有様を実感する。とても観ていられない気持ちになり、この短い番組の間にビールを3缶空けた。上滑りな議論が進む。

民主主義を短絡に議論の土台にすることへの違和感

この事件は、民主主義への挑戦であったろうか。そう感じられる要素は、事件の第一報の時点では十分に存在し得た。

しかし、その事件当日中の、しかもそれほど時間を経ない段階で、容疑者が自らの動機について「政治信条」の問題ではないとしていることが報じられた。それでもメディアは少時、この事件を民主主義の危機に絡めて伝え、自民党を中心とする政治家は少なくとも参院選終了まで民主主義を擁護するような建前で利用した。

選挙間近に引き起こされたこの事件が政治的に利用され、沸騰する世論が一方向に誘導される状況自体は事件発生の時点で十分に予見されたこととは言え、今、組織と政治家とのつながりが詳らかになってみれば、自民党議員の多くは事件発生直後から、この事件の本質が何であるかなどということは当然、直感的に分かっていたはずであり、よくもまあ、白々しくも一席ぶっていたものだとの感が強い。

民主主義の危機なるものは、はたしてこの銃撃事件が引き起こしたものだったか、あるいはこの事件に至るまでの政治家の態度が引き起こしたものではなかったか。

冒頭ナレーションへの違和感

番組冒頭ナレーションの一部を以下に抜粋するが、まずこれを聞いて先を観る気が失せ、画面を消した。

総理大臣経験者が暴力によって理不尽に殺害されるという、あってはならない事件でした。

ETV特集「ロングインタビュー 銃撃事件と日本社会」、NHK、2022年9月17日

本来、総理大臣経験者に限らず、殺人そのものがあってはならない類のものであるはずだし、殺害するとはそもそも暴力によるものである。この文言で言わんとすることがさっぱり分からない。

しかし、番組のスタンスのみならず、識者として登場した各氏の見解にも違和感は続いた。

高村薫氏の主張への違和感

例えば、高村氏が事件直後の状況について話している中に以下のような主張があった(太字筆者)。

本当に日本中が、私たち、国民も含めて、完全な興奮状態になっている──。

上掲。

今回の、山上容疑者があんな事件を起こしたことで初めて、初めてではないんだけれど、30年くらい、私たちは旧統一教会の被害を忘れていたってことに気が付く、何かが起きてやっと気が付く、そういう社会なんですね。

上掲。

このように、高村氏は勝手に全体を代表し、勝手に社会全体を断定的にまとめる。個別具体的な今回の事件の様相を、適切に抽象化するのではなく、予め定められた曖昧で茫漠とした想定に落とし込み、混同する形で物語る。

番組は、高村氏のこうした主張を「忘却」と「再発見」という言葉でまとめる。

「私たち」は「忘れていた」のか

上に挙げたような語りは、例外的少数と恐らく高村氏が考える「『私たち』に含まれない存在」を自然と排除する形であるが、少なくとも個人的には旧統一教会の被害を忘れていたことはなく、一定の年齢以上の人たちにおいては忘れていないという人が決して少なくないのではないかとも思う。むろん、名称変更の経緯や政治家との癒着の問題について詳しく知っていたわけでもなければ、まさか2009年以降に霊感商法は1件もないなどと団体が胸を張るほどの状況が作り出されていたことなどは知る由もなかったが、かつて霊感商法が騒がれた宗教団体のことも、その被害のことも、合同結婚式の異様さも忘れたことはなかった。だいたい、なにも旧統一教会の存在を思い出すために30年もの年月を遡る必要などなく、2009年には有罪判決が下された新世事件が広く報道され、教団の名前も話題に上っていた。特にカルト関連のニュースに気を配っていたわけでもないが、よく覚えている。だからこそ、政治家がこの組織について知らぬ存ぜぬでやり過ごそうとする姿を心底ばかばかしく思って眺めている。

ついでに言えば、これから新たに世間を騒がせるような出来事を引き起こすかどうかは分からないながら、オウムのことも、アレフのことも、それ以降の分派の存在も、詳しく追い続けているわけではないが、忘れたことはない。ほかにもカルトと言われる宗教組織は存在するし、そこには常に、旧統一教会とはまた異なる様相の信者や脱会者、その家族の苦悩、悲痛な思いがあることも容易に想像される。かつての問題を、新たな事件が起きて初めて再発見するという構図をそのまま社会全体に当てはめるような大雑把な主張は、分かりやすいものとは言え、決して適切であるとは思えない。

今も間違いなく、人の目を逃れるような日陰で何らかの苦境や被害に苦しみ、声にならない声を上げている人たちはいるはずである。小さな声どころか、声にならない声がある。それが分かっていても、その存在を見つけ出すことは簡単ではない。大きく言えば、こんなことはカルトの問題に限らない。そして、「私たち」が忘却しているなどと社会全体を大括りで切り捨てる前に思いを致すべきなのは、その声にならない声を掬い取ることのできる、そして実際に掬い取ってきた著名人から草の根に至るまでの人たちがこの社会には存在しているということである。

こうした文脈で「私たち」などと簡単に一括りにする言葉は口にできるはずもなく、ここでは決して言わないが、世間の少なくない人が陥っているのは、あらゆる出来事について、第三者として衝撃を受けた瞬間にだけ気を取られ、問題意識を持ちもするが、次第に興味を失い、あとは見て見ぬ振りをするという態度、これが実態なのではないか。世界に問題はあまりに多く存在し、解決も容易ではない。全ての人が全てのことを認識し続け、全ての解決に携わるということは現実的ではない。個人の力には限界もある。そうした現実の前に諦めが先立ち、あるいは自らの生活の問題の方に掛り切りになる。その時、問題は置き去りにされ、当事者以外から切り離される。しかしこれは、「私たち」に「忘れ」られているのではない。

「私たち」は「忘れていた」とし、「何かが起きてやっと気が付く、そういう社会」であるということに問題の全てを還元するような発想は、論点をうやむやにするだけで、結局のところ、社会の中に自らを埋没させ、他者の問題から距離を置く立場を取っているに過ぎない。

しかも、「私たち」という安易な言い回しは、その言葉の範疇に、組織と関係のあった政治家をも容易に含む可能性を持ち、関わった政治家に逃げ道を与え兼ねない不用意なものでもある。

「私たち」は「完全な興奮状態」にあったのか

事件を受けて「完全な興奮状態」になっていたという「私たち」にも、自分は加えられたくないと感じる。個人的には、人が殺されたという事実以上の感慨はなく、むしろ、直後からの報じられ方の方が気になって苛立ちを覚えた以外では、2日後の選挙がまともなものにはならないという諦めの気持ちがあった程度である。

民主主義をどう捉えているのか

高村氏はインタビュー中、端々で民主主義に言及している。同氏が民主主義をどう捉えているのかを具体的に知らないが、言及の仕方に不安を覚えた。

そもそも民主主義とは、手放しで礼賛できる完全無欠の正義などではない。事実、安倍元首相を始めとする多くの政治家や旧統一教会は、主義の多数決の側面を悪用していた。これは、政治家の不作為などではない。敢えて悪用していたし、しているということが問題なのだということ。民主主義とは、それが適切に機能するよう市民が常に努力を尽くさなければ、権力によって簡単に利用され、暴走する可能性を孕んだものだということを、過去から確かに学んでいなければならないはずであるが、高村氏の語りの文脈には、そのような理解の感触はなかった。

容疑者についての断定的な感想への違和感

高村氏の以下のような発言についても問題があるように感じた(太字筆者)。

何で元首相がああいう形で狙われたんだろうとか、そこまで旧統一教会のことについては安倍元首相1人に責任があるわけではない。それを何でああいう形で、その、標的になるのかなというふうに、今ひとつ分からない。私たちもよく、あの言語化、きちんと言葉にして説明することができないし、本人、その容疑者本人も、恐らく言葉にできない。そういう、非常にこう、曖昧な、あの、形、曖昧なところに今はまだあるというふうに思います。

上掲。

旧統一教会の問題を、安倍元首相に限らず、この世の誰か1人の責任に帰することが不可能であるのは当然だとしても、それが即、安倍元首相には責任がないことを証明するわけではない。安倍元首相の責任の評価については検証を要するだろうが、容疑者自身は当初から、あるいは事件のはるか以前から、安倍元首相が、遡ってその祖父である岸元首相の時代に始まり、必ずしも系譜通りの持続性を持ってはいなかったとしても、象徴的あるいは実際的に強力な役割を果たしてきたとの認識を示している。岸氏と安倍氏はいずれも一国の総理大臣の地位にあった人であり、特に事件当時、安倍氏は自民党最大派閥である清和会(事件後、教会との特に強い関係性が明らかにされている)の会長でもあった。旧統一教会の問題が同氏1人の責任ではないと言ったところで、標的にならない理由になり得るだろうか。そういう立場にあった人間であり、教会と関係の深かった人物である。

しかし最も気になったのは、発言の中の「本人、その容疑者本人も、恐らく言葉にできない」という部分である。どうしてこんなことが言えるのか。容疑者がSNS上に綴っていたもの、事件前にジャーナリストに送った手紙、かつて飲みに誘った同僚の1人に打ち明けていた憤り、そして事件直後の供述。この程度のことは、番組インタビューが行われたような時点で既に報じられていたことではなかったか。容疑者が、少なくとも容疑者にとっての合理的な理由を持ち、この事件を起こしたであろうことは想像できる。今も、説明には十分な多くの言葉を持っているのではないだろうか。高村氏の無責任にも思える断定は、事件をどう位置付けたいためのものなのか。

中島岳志氏の主張への違和感

テロであるとの前提は適切か

今回の事件について、特段の説明もないままテロだと断定して話が始められる。これが編集上の問題なのか、実際に中島氏本人が説明なく話し始めたものなのかは分からないが、今回の銃撃事件がテロであるという、その前提が確定していると信じる根拠は示されない。検証が必要であるとは言え、事件直後には容疑者が自らの動機について「政治信条」によるものではないとしていることが報じられており、この1点をもってしてもテロと簡単には断定し難い状況がある。

はたしてテロなのか? 今回の事件の影響として、一般市民は恐怖になど陥っていないのではないか。恐れ慄いているのは、事件の意味を理解している、旧統一教会と、同団体と関係の深い政治家だけではなかったか。しかもその恐れとは、これまで隠し通してきた団体との関係性が露見することに対してであって、それ以外の何物でもないだろう。

中島氏の主張への違和感について、例えば、以下のような主張を挙げておく。

山上容疑者ですね、この統一教会問題、家の破産という問題はですね、約20年前に起きたことでした。で、それから20年間ですね、彼は色んな所で色んな人生を送ってきているわけですね。で、この中で彼が持ってきた不遇感とか、生き辛さみたいなものがですね、よりどんどんどんどんと深まっていき、そして中年男性になっていった。この20年間のプロセスっていうのが、私は非常に重要だと思うんです。そしてこの20年間というのは、日本の政治というのが「新自由主義」というですね、自己責任論っていうのに偏っていった、そういう時期と重なっているんですね。この辺りも丁寧に見ていかないといけない、そういう事件なんじゃないかなと思います。

上掲。

事件の直接的な原因を20年前の破産に見るのみで、この20年の間に事件の引き金になり得る出来事はまるでなかったと決めつけるかのような前提の仕方は、むしろ乱暴なものではないか。この間に変わっていたのは容疑者の勤め先や、鬱屈した心境、社会のありようばかりではない。20年間には、容疑者の周囲で母親と宗教、家族をめぐって多くのことが動き、7年ほど前には家族の自死という悲惨な出来事があり、さらにその後、母親が宗教活動を再開するという事態まで起きている。20年前から抱えてきた不満を容疑者が中年に差し掛かったこのタイミングで一気に爆発させたという単純な構図には簡単に落とし込みようのない状況があり、ここを素通りして事件を適切に読み込むことはできないはずである。

もはや支離滅裂な論理立て

中島氏はさらに、問題を秋葉原事件と重ねる。母親との関係など、家庭に問題があった点を共通項とするが、山上容疑者の場合に家庭問題が存在するのは、旧統一教会の教義や献金問題に端を発している。家庭問題が根本原因なのではなく、それを生み出した真の原因をそこから更に遡ることができるわけだが、中島氏は原因の遡及を途中でやめ、本来の原因によってもたらされた1つの結果に過ぎない家庭問題を、秋葉原事件との共通要素として都合よく取り上げて自説を組み立てる。この姿勢ははたして意図的なねじ曲げではないと言えるものだろうか。

また、秋葉原事件の場合は、一般市民を被害者とする無差別殺傷事件であるのに対し、今回の銃撃事件の標的は明確に設定された1人の権力者であり、その動機についても、伝えられるものや容疑者の書いたものから、かなり明確な狙いが窺える。加えて引き合いに出された相模原の事件でも、被害者は無辜の一般市民であり、むしろ権力者とは対照的な弱者でさえあった。

具体的な動機と実際の被害者とを紐付けられない無差別事件と、動機と被害者とを(必ずしも直接的にではないにしろ)紐付けることのできる今回の銃撃事件とを乱暴に同一視しようとする論理はあまりに慎重さを欠いた不誠実なものだ。

中島氏が銃撃事件と関連づけたい他の事件の列挙は止まらず、京アニ事件や小田急線事件への言及があり、以下のように説明される。

どういう人たちに暴力を向けていくのかが抽象的ではあるですけども、徐々に徐々に具体性を帯びてきたんですよね。小田急線の事件であれば、幸せそうな女性っていうのが狙われたりした。そして今回、かなりピンポイントで、論理の飛躍があるにしてもですね、安倍元首相という、この10年間で最も日本における強い権力を持った人物ですね、そこに暴力が向いていった。似ている点とですね、徐々に徐々にこれが政治テロ的なもの、具体的なターゲットっていうものを、こう、まあ、設定するような事件へと変わってきているというのが特質かなというふうに思っています。

上掲。

もはや「論理の飛躍」どころか、支離滅裂であり、文脈すら読み取ることができない。無差別の殺傷事件と、狙いの定められた殺人事件とを、社会の流れの中での一連の変遷として語ることに、どうして無理がないのか。全くの別物だとの認識が生まれないのはなぜなのか。闇鍋でもあるまいし、自説に引き寄せたいがための一緒くたが過ぎるように思えてならない。

テロとする前提自体をまず疑うが、土台が誤っていれば、どれほど積み上げた理屈も何ら意味を持ち得ない。

面倒になってきた。

問題の安易な一般化への強烈な違和感

番組は、問題を限りなく拡大解釈し、金箔を延ばすようにどこまでも薄めて一般化する。社会的な大問題が語られる体裁らしきものが取られているようであっても、今回の事件の皮相部分を上滑りするような話に終始する。識者とされる人が、自説の強化のために、今回の銃撃事件の好適な部分のみを抽出して利用するような態度は厳に避けるべきものである。

安倍元首相を標的にした殺人という事象自体は一瞬のうちに実行された、もはや取り返しのつかない過去のことであるが、その背景に存在し、容疑者が最も世間に問いたかった問題、あるいは事件の余波とも言える問題は、今も被害者を生み、苦しめながら政治との一体化を目指し続ける組織の存在に絡む、現在進行形の事態である。

徒らな一般化は問題の本質から目を遠のかせる。当事者の悲壮感、焦燥感、切実さといったものを置き去りにするような議論はあまりにも虚しい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?