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不機嫌な大人たち

こどもの時分を振り返ってみると、まわりの大人はみな不機嫌だった。こどもに愛想よくしてくれるような大人は皆無で、みなぎすぎすしているかぴりぴりしていた。大人は隙あらばこどもの欠点をあげつらおうとしていて、自身の憂さ晴らしのためにこどもを怒鳴りつけたり手をあげたりすることは普通だった。ある日の放課後、小学校の校門を出たところで見覚えのない大人に声をかけられた。誰か同級生の母親かもしれないとは思ったが、小学生だから親と担任の先生以外の大人の顔なんかろくに覚えていない。その大人は小学生の私に苛立たしげな早口で「〇〇はもう帰った?」と聞いてきた。〇〇というのが同級生の下の名前であることに気が付くまでしばらく時間がかかり、曖昧な表情を浮かべているうちに「もういい!大人をからかうんじゃない!」と怒って行ってしまった。こちらとしてはもちろんからかうつもりなどなかったのだが、こどもが自分の思い通りの反応を寄越してこなかった場合に瞬間沸騰するような大人は珍しくなかった。そんな環境で育ったせいか、こどもの時は鬱状態にあった。毎朝、起きて鏡を見るたびにこのまま消えてしまいたいと思っていた。たまには気分のよいときもあったがそれは例外だった。中学生の時には夜ほとんど寝ないで過ごしていたこともあった。極端にやる気を出して周りをまきこんで何か始めたと思ったら、急に何もかも嫌になって投げ出してしまったりした。自分には重大な欠陥があるのではないかと考え余計に鬱々としたこともあったが、いつのころからかそんなもんだと割り切ることができるようになった。年を取って自分を突き放して考えることができるようになった。そういう人もいる、と自分自身をどこか人ごとのように考えることができるようになった。年を取ることのよいことはなんといっても諦めることができるようになることだ。若いうちは成長したいので自分の欠陥を直したいと思う。年を取ったら少しくらい壊れていようがなんだろうがなんとか動いていればよいし、止まってしまったらそれまでのことだ。

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