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土地の上がりで土器つくる

生活の中に、どうでもよいことが多ければ多いほどその生活は豊かである。どうでもよいというのはつまらないということではない。むしろ逆で、どうでもよいことがおもしろいのだ。どうでもよくないことはつまらない。仕事というのはどうでもよくないものだ。それはだれかの必要に応えてその結果として金銭を得るという活動だからだ。図書館で本を借りて読むのは、その本が仕事のためになるようなものでなければどうでもよいことだ。動画を観るということはどうでもよいことだ。ラジオを聴くということもどうでもよいことだ。散歩をするということもどうでもよいことだ。少し凝った料理をして食べるというのもどうでもよいことだ。誰のためにもならず、ただ自分を楽しませるだけのことがどうでもよいことである。本を読んだり動画を観たり、ラジオを聴いたりすることを何かの役に立たせようなどと浅ましいことを考えてはいけない。もちろん散歩や料理もだ。そんなことを考えれば考えるほど生活が貧しくなる。人間がただ、自分を楽しませるためだけに生きることが許される時代というのは特殊な時代だろうか?1万年続いた縄文時代を生きた人間はどれだけ生活の中にどうでもよいことがあっただろうか。土器に縄文を刻むことはどうでもよいことに思える。縄文時代には稲作をしていなかったから、穀物なしで食生活を維持するには狩猟採集や食事に時間をかける必要があったかもしれない。それでも稲作を始めたりもっと後に工業を始めたりしたひとたちよりはどうでもよいことに費やせる時間が長かったのではないか。現代社会ではほとんどのひとは多忙であるが、資本主義のおかげで働かずとも株や土地などの「上がり」で食べていける場合もある。これは縄文時代にはあり得なかった。自分のこどもや孫に面倒をみてもらって隠居したり、年金生活で食べていける時代はほとんど終わっているが、資本主義の「上がり」を手にいれることができればどうでもよいことだけして暮らしていくことができる。


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