見出し画像

週報106(2020.6.22〜2020.6.28)

週報の時間です。

五月雨を集めてはやし…とは芭蕉の句ですが、旧暦と一月の開きがあるので、ここでいう五月雨というのは、現代でいうところの六月の雨と捉えていいように思います。

水は低きに流れ…雨が降って、その雨粒が斜面を下り川の一部となり、その流れがはやまるのは当然ですが、その光景について(雨を)「集め」るという言葉遣いを選択するのは、この句を幼い頃から見知ってきた私達にとって当たり前のこととなっており、そこに改めて優れた意匠性を感じるには、一度立ち止まってこの作の味わいを検討し直さなければならないことと思います。

そのとき(これは私の横着な性格の為せる業なのかもしれませんが)、この句はどういう時代にどういう場所で詠まれて…という情報は、なるべくカットして楽しめる方が、作品自体はより長い時間を経て人々に親しまれ続けるのではないか、と思ってしまうものです。

言い方を変えると、TPOの諸条件を理解した上で詠まないと味わいがわからない句に、あまり魅力を感じないのです。だから、古典文学は厭われますね。「今」を生きる人にしてみれば、文法的な側面一つとっても、厄介な読書となることが必定です。

そういうハードルの設けられたメディアに対して積極的な姿勢を保つことの難しさは、多くの人の承知するところでしょう。その意味において、やはり水は低きに流れるもので、人は読みやすく楽しみやすいメディアを好んで引き寄せます(この言い方は、古典の価値が高く、現代メディアの価値が低いということを、意味しません)。

人の集まるところには合法的な狂気が生まれ、それは河川の氾濫のようでもあります。近年のSNS上で取り沙汰される話題を観察していると、芭蕉の句が大衆をなにかに擬えようとしているようにも見えてきますが、これは私のふかよみによる夢想に過ぎないので、さらりと流してください(さらりといえば、こちらは「春の小川」)。

○また来週…

来る週も来る週も、記事の終わりに「また来週…」と書き続けてはや106回、こういう当たり前に感謝して生活することを忘れないようにするのは難しいですね。まだ梅雨の時期が続きますが、これは恵みの雨でもあるので、一方で、ありがたがってみるのはどうでしょうか。

また来週お目にかかります。

noteを通じて頂戴したお金は【即売会の準備】【書籍・CDの購入】に使わせていただきます。