見出し画像

週報109(2020.7.13〜7.19)

週報の時間です。

今週は涼しい日が続いてくれました。多くの人が、わりあい快適に過ごすことができたのではないでしょうか。個人的には、急ぎの仕事が入っていたので、冷房をかけずに窓を開けて作業できたことが、集中力の持続に大変な効果をもたらしてくれたと思います。

窓に関係した言葉といえば「明窓浄机」ー好きな四字熟語の一つです。窓からさす光であかりをとって仕事をし、その作業机には必要最小限のものが置かれ、スペースには十分な余裕がある…理想的な作業現場です。「浄机」は「ちりひとつない清浄な机」と説明されますが、あまり清浄すぎても普段使いに馴染まないので、不必要なものが乱雑に散らかっていさえしなければ、それで合格とします(飽くまで私の中では…)。

しかし生活とは壮絶なもので、ちょっと気を抜くとあっという間に机の上が散らかります。使ったものを都度もとの場所に戻せば済むものを、作業中に興がのったり急ぎの仕事が入ったりすると、もう省みる余裕はありません。ひと仕事終えて我に帰ると、本だのペンだの小物だのがそこいら中を席巻する始末で、すぐに彼らをあるべき場所に返す仕事が、また始まるわけです。

話が逸れました。さて、この四字熟語の元になった「試筆」は欧陽脩(おうようしゅう)の書いたものですが、明窓浄机は彼自身の考案した理想ではないようです。試筆本文中において「蘇子美(そしび)はかつてこう言った」という形で紹介されているんですね(余談ながら「筆硯紙墨/ひっけんしぼく」という言葉も後に続いて現れますが、これも素敵な言葉です)。直接本文に当たったことはないので、いずれ確認しなければならないことではあります。おそらくですが、「蛍雪の功」に謳われるような苦学の要を語る試みの内にはなく、シンプルに、充足した環境で勉強や仕事をすることの喜びを訴えたものなのでしょう。

日夜商品広告に物欲を刺激され続ける私たちは、企業の提案する「よりよい生活」を求めて彷徨(さまよ)いますが、その要必要を仕分けるのは飽くまで私たち消費者自身なのであって、その判断を他者に任せることはなりません。と言いつつ、私はいまiPadで記事を作っています。私は本当に自分の判断で手書きよりワープロ打ちの価値を重んじて、iPadを購入したのでしょうか。そう考えると、自分の身の回りにあるアイテムのいかほどが、「本当の必要」によって購入されたものなのか、甚だ疑問です。

断っておくと、私は人工物の一切を断ち自然に帰ることを勧める立場にありません。そもそも、自然、という言葉です。漢字の組み合わせとして見ると、「自ずから然うなる」ということで、私たちが真っ先に想起するであろう「自然≒(ニアリーイコール)動植物」という式とは、あまり関係がありません。

ご存知の通り「豊かな自然」といっても、それは必ずしも人間がその地に踏み入らないことを意味せず、むしろ人の積極的な(それでいて適度な)介入によって成立する「里山」などの概念は巷間によく知られます。人の手がかけられていないのは、例えば白神山地のような区域で、これにはブナの原生林を天然のままに保存しようとする明確な意図があり、じっさい世界遺産に登録されています。

明窓浄机という言葉は、保障されて当然と思われるような生活上の設えを表す言葉ではありますが、これがいま保障されることの有り難さを、折に触れて思い出すことは、気持ちを豊かにすると思います。いわば「足るを知る(老子)」ですね。今の自分が「恵まれている」という発想でものを捉える試みは、心を穏やかにし、忙しい日常に隠れて見えなくなっていたものを見せてくれもします。

今の世の中には、見たいと思わなくても、向こうから"見せてくる"ような風合いがあります。そしていつの間にか、自分から望んで見たいと思っているように錯覚し始めます。これは穏やかならざることです。この状況には、それこそ積極的な介入が必要なのであり、自分から情報を遮断する主体的な判断が求められます。そうでなければ「あの人はこう言っている」「この人はこう言っている」をせわしく追ううちに、何がなんだか分からないまま、私達の一生は終わってしまいます。

人の話に耳を傾けることは大変重要ですが、それは真剣に対象と向き合った人の話でなければ、無数の人々の空言空想に付き合わされるだけなので、時間の空費です。一方、ボーダーレスで高速な情報の収集を考えれば、SNSで事足りますし、緊急の情報をあえて新聞で知ろうとする人はいません。すぐTVつけるなり端末を起動するなりして、即時情報に当たろうとするのが"自然"です。ですが、緊急の情報は、その時にその場所に特化するゆえに、時が経つと情報としての価値を失います。

そういう時間の淘汰をくぐり抜けて生き残った"情報"は、やがて"作品"と呼ばれるようになるのですが、多くの人が、即時性の高い情報に重きを置くゆえ、それによって日々大変な疲弊に苦しんでいるように見えます。これは同じ日本人として大変嘆かわしいことです。

では、真剣に対象と向き合った人というのは、どうやって見つければよいのか?それには、「真剣に対象と向き合った人を知っている人」を見つければよい…としてしまうと、もうこれは際限がないことです。結局は自分で判断するしかないのです。自分で判断するしかないし、自分で判断するから、他でもない自分の人生上の出来事として意味を持つんですね。自分で決めたことなので納得がいくし、その判断に誤りがあったなら、ただそれを認め、謝って、ことを収めるだけなのです。私はこういうことを常識とよびたいと思います。それは、難しい漢字を読んだり書いたりすることや、その能力を誇ることとは、余りにかけ離れたことだと捉えています。

○また来週…

涼しかったはずが、記事を書いているうちに段々と気温が上がってきました。農作物の育成に必須たる日照をありがたがらなければ。ともあれ、7月第3週の冷涼なる気候は本格的な夏に入る手前の保養期間だったと思うことにします。

今日は久しぶりにYou Tubeでライブ配信をやってみます。お時間のある方はどうぞお立ち寄りください。

それでは、また来週お目にかかります。


noteを通じて頂戴したお金は【即売会の準備】【書籍・CDの購入】に使わせていただきます。