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「トランスヒューマニズムとポストヒューマニズム」と「個の救済」

松田語録:トランスヒューマニズムとポストヒューマニズム (youtube.com)
 松田先生が最後に仰った理想を、ナノ・ロボットで実現しようという話をカーツワイルがTEDなどでもしていました。この理想は、人間を進化・進歩の先に変移超越するという様態を示し、トランスヒューマニズムの観点でしょうか?
 ところがカーツワイルの著作の翻訳タイトルでは『ポストヒューマン誕生』との表現もあり、一見錯綜して観えるのでしょうか?
 単純な言葉の意味の違いでカテゴリーを位置付けて、「進化・進歩の変移の様態を人間に観て、それを推進する立場がトランスヒューマニズム」であり、「現行人類が変移を経た後の様態と観ればポストヒューマンであり、それを追求する立場・主義がポストヒューマニズム」、ということになるのではと思います。
 進化発展過程の現象を「トランス」と言い、その過程で種的変移が発生した様態を「ポスト」とする。こうした過程の上で逐次更新される人間の様態を、その前後で観て「ネオ・ヒューマン」(ピーター・スコット・モーガン)や「スーパー・ヒューマン」(稲見昌彦)とも呼んでいると思います。

 こうした進化・進歩、あるいは拡張を推進する立場は、現行・現状をより良くしようという動機を持ちます。いわゆる改革・革新になると思います。波多野精一の表現なら「未だ来らず」を「将に来らんとする」べく当為を定めると思います。
 しかし過去を懐かしみノスタルジーに浸る、保守的態度も人間にはあると思います。故郷を想い、両親・家族を思い、幼年期や青春の思い出を大切にする。アーミッシュのような生活も、そうした意識が宗教化したものである様に思われます。
 未来を眺め、自然科学の知見が拓かれていくと、この地球も太陽系も恒久的なものではないと理解される。生存・繁栄のモチベーションが、シミュレーションによって試行錯誤のエネルギー・コストを減らし最適化を探求をしてきた、その進化過程を進める立場は、加速主義となると思います。  過去からの集合集積知に反省的に生き方を求めると、加速するための集合集積知利用とは異なった立場が出てくると思います。
 私見で恐縮ですが、結局、それは「普遍と個」との問題として浮かび上がり、人類と個人、社会と個人、進歩と犠牲(優生思想)、国家と個人(国や民族の為に命を失う個人)、等々、と言った問題の形で現れてきていると考えられると思います。
 この根本問題、「普遍と個」との問題が、「進化・進歩・拡張・加速主義」と「個(霊)の救済」との弁証法過程を展開してきていると思っています。

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