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シンギュラリティサロンへのコメント「ハラリ批判批判」について

松田語録:ハラリ批判批判~最近ハラリ批判が流行っているけど… - YouTube

 ビッグ・ピクチャーを描いてきたのは現代のハラリだけではないと思います。ハラリの人類史観は、現実の自然宇宙の歴史の底流を流れ、生命史、人類史と言う断片を観ただけでも、「比例」的に、あるいは階層的に、基本構造の共通性で抽象的に描くことができると思います。
 実際、古代の世界観・精神(知性・人類)史観では、恐らく集合集積知の形成過程を眺めて、その結果としてブラフマン‐アートマン・モデルを描いてきました。松田先生も狩猟採取生活から農耕生活に至った時の大きな集合規模革命(相転移)を指摘されましたが、家族集団で生活した状況が、ここで大きく変わりました。つまり、農耕には土地を耕す、さらに灌漑、治水といった、社会共同体作業が必要です。
 さらに、農耕で発展したのは天文学に発展する自然観測からの暦の知識などです。これらは多くの社会共同体の成員が必要であり、この多くの成員個々の知識を集合集積してきたのが、農耕生活による社会共同体でした。
 つまり、ブラフマン=集合集積知にアートマン=個々の知識が収斂してきた様を人類は眺めてきたわけです。 加えて、こうした個々の知は、自然原理に対する原始心性による説明原理(八百万の神)から観測観察から探求された、その時点での科学science=scientia知識であるため、それを得た個人は「神」=力ある者=権力(少なくともその側近、庇護される者)の側に就きます。これは実際の歴史記録で明らかです。
 こうして集合集積知は集権的社会共同体構造の内に位置付けられてきました。

 ところで、集合集積知の表象であるブラフマン‐アートマン・モデルは、プラトンのイデア論や、それらの影響史を受けて中世のアラビアの精神知性観にも流れ、知性単一説と言う者にもなっていますが、現代量子物理のシュレーディンガーは、その知性観に自分は立つと言っていました。
 西洋キリスト教思想では「個の救済」を主張する為、この立場を批判しましたが、「神の知」という神学の底流では、結局、帰納法的な集合集積知形成の立場をとらないだけで、プラトン的イデアを神の知に置く、演繹法的集合集積知を論議してきています。
 トマス・アクィナス(私の研究対象)はその代表です。 まとめますと、シンギュラリティに向かう知性観は、自然宇宙の底流を流れる情報展開(進化=神化)過程を表現しており、様々なシステム階層(量子相、分子相、生命相、多脳・多意識相、半導体相・・)で相転移しつつ、普遍的な「ブラフマン」に向かっているような気がします。
 サム・アルトマンも、GPTの開発シミュレーションはシリコンバレーの宗教でそこに向かうと言っていましたが・・。


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