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死と不死との弁証法過程

シンギュラリティな雑談 2024.5.16版 (youtube.com)

シンギュラリティサロンの先生方には、ご迷惑をかけましたのに大変ご親切に接してくださり、本当に有難うございました。
 bioshok先生が扱われた「AIアライメント問題」と「個の救済」との関連にもふれてくださり、ありがたいです。
 一つの例で言えば「効果的利他主義と効果的加速主義」、こうした二項対立の関係を、単に対立として観るだけでなく、情報展開過程としての宇宙における弁証法過程であると、bioshok先生も観ておられるように思います。彼のネット上の諸々の提言から、そう思います。「宗教と科学」「信仰と理性」「現実と理想」「個と普遍」・・・・・・、こうした思想史上に現れた問題意識が、単なる対立を超克して、弁証法の正反合の止揚の位置を見出そうとしたように思います。
 先日、塚本先生から『将軍』の話もありましたが、その話に関連して言えば、信長の理想主義(加速主義)・秀吉の現実主義(個々を懐柔する)・家康の止揚、こんな観方もあるでしょうか(強引ですが)?

 さて、これも関連するかもしれません。この回で松田先生が、不死は神の属性、死は人間の属性、不死となった人間は神になるとの話をされました。まさに先回、お邪魔させていただいた時に説明した「人となった神と神となろうとする人」と題した拙論に繋がりを持つと思います。
 ただ、これに関してのコメントを記します。逆説的ですが、人間的有限存在の「不死は死」ではないかと思います。保田先生から先回、人間的個の限定原理を尋ねられ、「アトム=不可分」ということを、先ず答えました。物質的(質料的)アトムとしての人間は栄養学的に観れば物質世界に循環的に連続していますので、無意味化されます。DNAが個体システムのプログラムであるとしても、その連続性は変わらないと思います。
 では人間的個体性をどのように観るか?拙論では、トマスの「個のイデア」の解釈に楽曲の例を出しました。モーツアルトのアイネクライネナハトムジークは、演奏(質料)条件が、どの様であろうともその楽曲の個性は普遍性を有するように、個人の主観意識の物語性がそれにあたるのではないか、と考えています。これに意味付与と価値創造が為され、システムとして閉鎖系の様態を示します。
 ルーマン社会学のシステム理論等では、こうした閉鎖系の外側に開放系が無限の様相を示すとされます。その無限性が自己言及的に表現され、ノエシス・ノエセオスと宇宙を表現するとエネルゲイア=純粋現実態になるのだろうと思います。
 従って、閉鎖系システムは閉鎖系であることによって限定・限界がある、即ち「死すべき」ものにならないでしょうか?このシステムの不可分なるあり方を、開放すると不死にはなりますが、それまでの個ではなくなる気がします・・・。

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