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ユリシーズを読む|007.タイトルに悩む|2021.03.16.

『オデュッセイア』第四歌。
 いきなりまたもや宴会の場面である。
 宴会会場から移動してきたらまた宴会会場。構成ヘタかよ、これじゃnoteに書くネタが思いつかんよ、せっかくちょっと続いているのに。という、およそ読書をするうえで抱くべきではない感情が芽生える。読書をして思ったことをnote に書くのか、note のネタのために本を読んでるのか。
 美しい背景としては、前者だろう。だけども、そう思って始めた企画だとしても、気づいたらnote のネタのために本を読んでいる、そういう思考手順が芽生えてしまっていることを否定するのも後退か。理想と現実のギャップ、みたいなダサい二項対立の苦悶をいってしまって、わ、自分もそんなフレーズがいえた!みたいな満足感で納得できてしまう思考にもなりたくないし、そういうので満足できる歳になったんだよ、とかいう達観とかからも百億光年くらい遠ざかりたい。そうそう、もう少しこう、シャープな言葉を探せ。
 なんの話だったか、そうそう、書き方をまだ探っているのだ、というか書き方を探らないといけないのだ、ということがやっと思い出される。あまりにも長い時間、そういうことを先送りにしてしまった罰だ。脳が重い。軽くしていこう。

 つまりは、ここに至って企画がぼんやり形を帯びてくる。『ユリシーズ』だろうが『オデュッセイア』だろうが、とりあえず読む。毎日ネタを探すのが難しいので、そのネタの提供元としての読書になるのだろう。そして、それを読みながら、別の本とか、そういう思い出したものと一緒に何かしらを書くのだろう。何を書くのか、書きながら考える、まとまっていくだろう、そうやってスタイルを作らねばならないとは、やはり脳が重い。

さて、宴会のあとの次に訪れた宴会会場。
「パリピの歴史は古い。文献を遡ると、古代ギリシアの神話、『オデュッセイア』にもそうした記述がみられる。」
みたいなことでも真面目くさって書けというのか。そうやって、歴史家のやってることがそれらしく聴こえるのは、単に用語の選択に過ぎない、ということをいってみるというのも、最終的には頓挫して、ごめんなさい、安易でした、と謝罪することになるかもか。失礼なことをいってごめんなさい。
 でも、日本語で読む『純粋理性批判』とかがやたらと難しいのは、20世紀に西洋哲学を日本語に翻訳したひとらが、自分たちを権威付けするためにあえてわけのわからない哲学用語を作り出して、フランス語を日本語に直訳したみたいな日本語を駆使したりして。カントはプロイセンですが。今、日本の哲学が背負っている最大の課題は、このわけのわからん日本語訳西洋哲学の総点検なのではないか。人文学が疎かにされる遠因のいくつかは自分たちでつくったといいたい。バレただけなのだ。

でも、僕は人文学が好きだ。良心の塊のような尊敬できる研究者もたくさんいる。必死になって「人文学も役に立つ!」みたいなことをいう必要はない。工学のように人文学が役に立つわけがないのだ。その役に立つという仕組みは工学が作ったものなのだからもとより矛盾している。他人の土俵で勝負をしてはいけない。そんな場合じゃない。
 すでにそういう場面があらわれてきているが、A.I.とかが人文学の価値を誰にもわかるようにみせてくるだろう。ユヴァル・ノア・ハラリのいうように、集団幻想のような物語こそが現生人類を現生人類たらしめているのであれば、科学や数学や工学も物語であることを忘れてはいけない。現代の問題は、科学や数学を真実と勘違いしていることだ。これはいずれもとてもうまくいく物語のひとつというものでしかない。様々な意味で、数学は真実だ、というのは神話の一つに過ぎない。そういう物語を適正に運用していくのであれば、メタ科学としての人文学みたいなのが必要なのは明らかだ。でなければ、不完全性定理が証明したとおり、科学や数学のもつ限界や矛盾は、その体系の中にいる限り免れない。
 もっと壮大な視野が必要なだけだ。

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