私たちは〝文字〟で人を殺せる、という話
続きものを書いている途中だけど閑話休題。
というより色々忙しくて思考があっちこっちしているというのもある。
今回は僕たちが普段、ごく当たり前に用いる『文字』というものについて前々から色々考えていたことを適当に書いていこうと思う。
ここ最近は自身の「発言」というものに思うところもあったので、ある種戒め的意味合いもある。
大して面白くないだろうし、結局はただの雑記なので本当に暇な方はお付き合い頂ければと思う。
僕は結構長いこと『物語』を書いている。
「物語を書いている」という括りでいえば、もしかしたらその辺の同世代のプロ作家より歴だけは長い可能性がある。
近年は『文字』における演出や効果、なんつうクソめんどくさいことも考えながら書いたりしていたのだが、まぁそれはいいとして、そんな風に色々考えながら書くようになってから、一文で狙った効果が出るようになった。
というとあたかもめっちゃ文章書くのが上手いみたいに見えるがそういうことでは無い。(文章はいつまで経っても成長している気がしません)
基本的に『物語』というのは同じシーンを読んだ(見た)としても読み手によって受け取り方が全く違うと思う。
これは文章作品に限らず絵や映像作品などでもそうだ。
感想を貰った時に様々な内容になるのはこういう理由だと思っている。
ただ『一文で狙った効果が出るようになった』というのに気付いた時、それに気付かせてくれたそれらは前述した『読み手によって受け取り方が全く違う』というものに該当しなかった。
頂いた感想の中で該当箇所に触れたものについては一律同じことが書いてあったのだ。
最初は特に気にしていた訳ではないが、ある時ふと気になって考えた。暇なのかな?
一律同じ感想となるシーンの共通点といえば、僕自身が僕の中でイメージをガッツリ固定した上で、本当に集中して書いたシーンばかりだった。
つまるところ、その作品で最も考慮して書いたシーンになる。
これに気付いた時、僕の中にはある単語が思い浮かんだ。
『言霊』
耳に、目にしたことのある方もいると思う。
大辞林などでは「言葉にあると信じられた呪力」とある。
オカルト的なことを信じている質ではないが、担げる験は担ぐ主義なので何となく納得した。
つまり僕は、様々なことを考慮して書くうちに、無意識に『念』とも呼べる何かを込めていたのか、と。
まぁここでは僕が作品に込めた念が何かなどどうでもいい。
問題なのは「『文字』には念を込めさえすれば他人の感情すらひとつに強制する」という点だ。
かなり遠回りをしたが話を戻そう。
僕は『一文で狙った効果が出るようになった』ということに気付いたと同時に、『言葉』あるいは『文字』には恐ろしい力があることに気付いてしまった。
例えば「ネガティブなワードは口にしない」という行為。
意識の改善といった点で見れば気軽にトライ出来ることなので、実践したことのある方もいるかもしれない。
が、先程述べた「言葉にあると信じられた呪力」があるという前提で改めて見た場合、意味合いは大きく変わってくる。
「ネガティブなワードは口にしない」=「ポジティブなワードを口にする」
つまり自分自身に「呪い」をかけていることになる。
これは前向きな「呪い」になるのでまだいい。
では以下のワードはどうだろう。
「疲れた」
「どうせ私なんて」
「嫌い」
人間なら誰でも何となくで使ったりしてしまう「ネガティブ」に分類されるであろうワード。
これを前述した「言葉にあると信じられた呪力」があるという前提で見た場合、自分自身に恐ろしい呪いをかけている、ということになる。
おそらく全ての発言にその恐ろしい呪いが込められている訳ではないだろう。
それでも、口が悪かろうと、"発言する内容"には細心の注意を払わねばならないと改めてそう思うくらい、長いこと『物語』を書いてきた僕にとっては、言葉の呪力、つまり『言霊』というものの力の強さが手に取るように分かってしまった。
『言霊』について恐ろしいと思う話がもうひとつ。
それは「『言霊』を他人に向けた時」の話だ。
『言霊』を自分自身に向けた時、その「呪い」が作用するのは自身だけだ。
ただ他人へ向けた時、それは受けた相手によって「呪い」の効果が変わってくる。
分かりやすい例でいえば、近年「焼きマシュマロ(以下、焼きマシュ)」だとか「毒マシュマロ(以下、毒マシュ)」と言われるあれらが「他人へ向けた『呪い』」になると思う。
ネガティブなワードというのは『言霊』の有無に限らず、言葉の意味として強い感情を示すものが多い。
「マシュマロ」というツールを使ってまで他人へ向けた『悪意』は、当然のことながら自分自身に向けたそれよりも相当「強い『呪い』」となって受け取った側へ作用するだろう。
「焼きマシュ」や「毒マシュ」を受け取ってしまった方が筆を折ってしまった、アカウントを削除してそっと消えていった、という顛末を聞くことがあるが、「強い『呪い』」を他人から受けたと考えるなら当然の作用と言える。
さて、ここまで書いたところでやっと今回の記事のタイトルへ辿り着くのだが、前述の通りに考えた僕は『文字』を使う者なら誰でも『文字』で人を殺せる、とそう考えている。
「殺せる、は言い過ぎじゃない?」とそう考える方は、今度はポジティブな言葉たちで置き換えてみて欲しい。
「最高でした」
「すごく面白かったです」
「大好きです」
これらを他人に言ってもらって、とても嬉しい、良かったと思わないという人は殆ど居ないと思う。
それは言葉に込められた「幸せの呪い」が正しく作用しているからだと言える。
故に「『文字』で人を殺せる」というのは、「幸せの呪い」とは真逆の効果が最も強い形で作用した末に起こり得ることだと、言い過ぎなどではなく僕はそう思っている。
以前どこかで「好きな人へは『好き』と言いたい」とそんなことを言った記憶があるが、それは「『文字』は恐ろしい力となり得る。しかしそれは使い方次第で人を幸せにすることも出来る」とそんな風に考えていたからだ。(実際本当に好きだと思っていたから伝えたかった、というのもあるが)
最近あまりのストレスに割と正気ではない。
意図して「殺意を込めた言葉」を使う程に。
冒頭で、戒め的意味合いもあるとそう述べたのはそういう訳だ。
こうして文章という形で残したことで自身が修羅になってしまわないことを祈りつつ、引き続き『文字』を使っていこうと思う。
さて、この話を最後まで読んでくれたあなたは今、どんな『文字』を誰に伝えたい?