自我とサブジェクトとの距離感と静かに積み重なるファミリーコンプレックスの話
映画のネタバレ含んじゃうんだけれど。
ぼくがEVERYTHING POINT−Parallel Stories−のティーチインで質問したかったのが、みんなの『主語』についてのことだ。
「劇中でおどけた小久保さんが『えびちゅうはこう考えています!えびちゅうは!』と冗談めかして言っていましたが、実際のところ、妹メンみなさんは物事を語るとき、『えびちゅうは』という主語で話すことは出来るようになったでしょうか?姉メンみなさんはどんな時から『えびちゅうは』という主語で話すことが出来るようになったでしょうか?」という質問をしてみたかったのだ。
ぼく特有の怪しく不吉な雰囲気のためか、数度のティーチイン上映会にてついに質問者として指名して頂けることはなかった。うん。それでいいんだ。悔しくなんかない。ほんとに。
それはそうと。
主語を「自分」ではなく「自分の所属しているもの」に置き換えて発言をすること。これは、自己をその所属と同化させ代表するという、決して軽くはない所業なのだ。
ぼくが社会人になりたてで会社の管理本部に配属となった際、社の代表番号にかかってくる電話をとることがなかなかできなかった。無論、新人の自分宛の用件でかかってくる電話など皆無で、やるべきことは内容を聞いて担当者に変わってもらうだけの単純作業でしかない。だが、電話に出て「はい、海山商事です」というひとことを出すのが怖かったのだ。
この何者でもないペーペーの新入社員の自分が、それなりに歴史がありそれなりに社員数のいる会社の名を名乗ってしまって良いのだろうか。自分の受け答えひとつで社内の皆さんに迷惑がかかってしまうのではないだろうか。そんな考えなくて良いようなことを考えてしまっていたのだ。
…わかって頂けるだろうか。所属との同化というのはそういう話だ。
先ほどの言葉を繰り返すと、新人の頃のぼくは、所属先である会社と自己とを同化させるということの重さに耐えることが出来なかった。や、単なる電話の取り次ぎの話なので、実際は重い話でもなんでもない。だけど、人生経験の圧倒的に足りないぼくには、それが酷く重く感じてしまったのだ。自己肯定力が欠如していた上に、覚悟や責任感が足りなかったのだ。
そんなぼくのような単純作業者とは違い、彼女らはインタビュアーからの質問などに対し、ある時は個人として、ある時はえびちゅうメンバの一員として、そして場合によってはえびちゅうの総意のスポークスマンとして、ひとりで言葉を探して考えを明らかにする必要がある。
だから、「えびちゅうは」という主語を用いる際、妹メンには、姉メンや大人や歴史に対する遠慮をしてしまうことなどないのだろうか。どのように自分と所属との距離を考えているのだろうか。それを確認してみたかったのだ。
そして若かりし日の姉メンは、いつどんなタイミングから、その主語をうまく使いこなせるようになったのだろうか。あるいは、実は今もまだそれが出来ないでいるのではなかったりしないだろうか。それを確認してみたかったのだ。
ここからはぼくの勝手な見立てだが。
真山さんは語る言葉全てに、見えない「えびちゅうは」という主語が常に付随していると言っても過言ではないように思う。彼女の活動はずっとえびちゅうと共にあった。そのレールを外れない行動をし続けてきた。名実ともに、誰よりもえびちゅうの総意と重なる言葉の力を持っているのが彼女なのだ。
安本さんは、真山さんに並ぶレベルでえびちゅうの総意を語り、それを体現する存在だ。彼女の言葉にもまたグループ全てを表現する力がある。いまの安本さんの言葉や行動は、自身のえびちゅうとしての強い自覚と覚悟の上に成り立っている。そう思えてならないくらい、快活にしっかりと発言をするようになった。
次のあの人の言葉については、またそのうち良きタイミングでゆっくり考えてみたい。
そして小林さん。彼女はふたりと比べると、一歩引いた言葉を用いることが多いかもしれない。ただし、彼女にはここぞという時に、誰よりもしっかりとした言葉を操って、皆を正しい方向へ導いてくれる。使うべくときに、しっかりえびちゅうとして向かうべき方向を言葉で指し示すことが出来る人。それが小林さんなのだ。
中山さんは、言葉よりも行動で示すタイプであると思う。そのためえびちゅうという主語を使うことは少ない印象だ。しかし、たまに呟く言葉や物事に対する反応などに、えびちゅう総体としての説得力が隣り合わせになっているように感じることが多々ある。黙っていても言葉の力を発現させるのが中山さんなのだ。そして中山さんは飼っているイヌがかわいい。
折りにつけ「えびちゅうは真山だ」なんて言葉を耳にすることがあるが、実は誰もがわかっている通り、えびちゅうは真山さんなだけではなく、えびちゅうは安本さんであり、えびちゅうは小林さんであり、えびちゅうは中山さんでもあるのだ。それは揺るぎない事実なのだ。
それでは、妹メンたちの言葉はどうだろうか。
まずは、先にここでちゃぶ台をひっくり返してしまっておこう。
各人が「えびちゅう」という主語が使えるか使えないか。そのこと自体には、現時点ではそれほど大きな意味はないと思っている。というか、えびちゅうという主語が使えれば立派であり、そうでなければまだまだである、といった価値観で物事を測るのは、妹メンたちには必要ないと思うのだ。
大いなる責任感と共に、覚悟を持って「えびちゅう」を主語にすること。それはそれで立派なことだと思う。その一方で、「えびちゅう」という存在を大きく大切に捉えているからこそ、まだ「えびちゅう」という主語を用いることができないというスタンスも、また真摯で立派な考え方だと思うのだ。
急ぐことはない。背伸びする必要はない。一人ひとりの背丈や目線に伴った物事の捉え方があれば、何も問題はない。そういった域には、ゆっくりと踏み込んでいけば良い。ぼくはそう思うのだ。思っていたのだ。
しかしここにきて、小久保さんの生配信での言葉がネットニュースになった。
そして風見さんは、きょうのブログで「私たちって意外と強いんです」と綴った。これは、過去に大きく重いことがあったとき、姉メンの用いた言葉と重なるものだ。
このふたりの真剣な言葉は、まぎれもなく「えびちゅう」を主語として発されたもの。えびちゅうの代表として紡ぎだされた言葉たちだ。そしてこれらの言葉たちは、誰かに用意されたものではなく、彼女たちからごくナチュラルに出てきたものだ。理由なんかつけられないが、ぼくはそう直感する。
ぼくがティーチインで試しに聞いてみたかったこと。その回答はここに存在していたのだ。
妹メンは5人とも素晴らしい力の持ち主たちだ。
小久保さん風見さんだけでなく、桜木さんも桜井さんも仲村さんもみんなそうだ。すぐにでも歌姫になったり女優になったりダンサーになったりミュージカルスターになったりなど、ありとあらゆるものになれるポテンシャルを持ったコたちだとぼくは思っている。そしてぼくは、彼女らはあらゆるものになれるかわりに、「強くなる」のだけはもう少し先の未来で果たせば充分なものだと思っていた。
でも、その見立ては間違っていた。
彼女らは日々どんどん強くなっている。きっとものすごいスピードで。色々なことが起きてしまうエンタメ界だけれど、彼女らは負けずに「意外に強いんだよ」という片鱗を垣間見せてくれ、ぼくらはその強さにハッとする。
妹メンだけではない。姉メンも一緒だ。あの時だって、あの時だって、えびちゅうの歴史は連綿的にずっとそうやって続いてきたのだ。姉メンも妹メンも一緒。みんな、意外に、強いのだ。意外にね。
ぼくらが彼女らから目が離せない理由とは、きっとそういう所に惹かれるからなのだと思う。
しかし、どう表現すればよいだろう。
みんなには強さをもってして自分の弱さを塗り潰そうとしないでほしい。たまには弱い面が出てしまうことを、無理に隠さないでいてほしい。たとえばステージで涙が出てきてしまった時にも、そっと抱きとめてくれる弱くて強い仲間がそこにいるのだから。
強さと弱さの両方を大事に抱いて、前を向いていてほしい。
人生ってものは、時々思いもしないような事態が訪れるものだ。
しかし前を向くしかない状況で、姉メンはもちろん、妹メンたちもしっかり前を向いている。これができているってことは、充分すぎるほど強く尊いことであるのだと思う。きっと今は、これだけでいいんだ。
そんなみんななのだから、きっと悪くない未来が訪れる。きっとそうに違いない。意外に強い彼女たちだ。ぼくらが勝手に過保護に物事を考えて、勝手な言葉を使って、勝手に代理で見えない何かに感情をぶつけようとする必要なんてない。意外に強い彼女たちだ。だから、ぼくらは応援するだけでいいのだ。きっとそうに違いない。
ボンヤリとハッキリと、いまはそんなことを考えています。
まとまらない考えの中ですが、そろそろ寝ますです。
おやすみなさいグー。