邪悪は喧騒の中に宿る。

2020年5月23日、ある女性プロレスラーが命を絶った。どこかで見たような顔だったが、しばらくして私の好きな新日本プロレスが追悼を表明した記事を見たときに記憶が強く蘇ってきた。

2020年1月4日、私は東京ドームで彼女のプロレスを見ていた。第0試合、スターダム提供試合という名目で。

悪役プロレスラー、つまりヒールプロレスラーは人格者でなければできないとよく言われる。それはどういうことか。会社の仕組みに背くことなく(試合を組んでもらえる程度に節度を持つということ)、かつリングの上ではヘイトを稼ぐような動きをし(正しく負の感情を与えられること)、そしてそのキャラを保つ(信念をもってやり続けること)、こういうことができないと悪役は難しいのである。

彼女はヒールプロレスラーだった。ヒールという役割は先ほど説明したけれど、これがリングの上だけで完結するならいい。でも、それが理解なき人々までに伝播したらどうなるのか、私はこの事件で深く考えざるを得なかった。

彼女を殺した人たちは、きっと彼女が死ぬなんて思っていなかったんだろう。「だってそういうキャラだったでしょ?」みんなそう思ってたに違いない。だから、キャラに外れた自殺という究極の選択肢を見て、みんな怖くなって逃げだしてしまったんだろう。

聞いておこう。キャラとは何だ?

ここ十数年で急速に普及した「キャラ」なる概念で、他人を簡単に位置づけできるようになった。それはいいこともあるだろうけれど、大半は悪いことしか引き起こさないように思う。「いじられキャラ」をやってきた私が言うのだから、間違いない。

基本、私がいじられキャラをやるのは同期±2歳くらいであるし、十分に仲良くなってからやるものだという認識がある。だがしかし、テレビやインターネットに感化されたのだろう、人によっては大して仲良くもないのにキャラ先行でコミュニケーションを取ろうとする人が出てくる。彼/彼女らはいじっているつもりなのだろうが、ただ無礼なだけである。

私がそれを指摘すると彼/彼女らは半笑いで流すか、不愉快になるかのどちらかになる。おそらくは彼/彼女らは空気の中でそれを敏感に感じ取り、コミュニケーションしてきたのだろう。空気を壊す人間がきっと嫌いなのだろう。でも、彼/彼女らが泳いでいるその空気が最も選択されるべきものだという保証はどこにもない。空気に流されていながら、空気の採択者でいたいという矛盾した、言い方を変えれば万能な立場に彼/彼女らは居たいのである。そこには私と彼/彼女らという関係性は存在しない。

それが全世界的な規模で実行されるとどうなるか。それは彼女だけではなく、あらゆる著名人の自死が表しているように思う。

閑話休題。

彼女の死を巡って、非常に興味深い言動を見た。

「これはリアリティショーの責任だ。マスメディアの責任だ」と。

確かに、憎悪を増幅したのはマスメディアで間違いない。だが、この言葉の裏に隠された意味を私は感じていて、本来はこう書かれるべきだ。

「これはリアリティショーの責任だ。マスメディアの責任だ。それに煽られた我々はまったくの無罪で被害者であり、責められる咎はまったくない」と。

今回の事件では、リアリティショーを見ているような人たちの話なのであって、自分には当てはまらないと思う人もいるだろう。なのでもう一例出す。

2019年4月19日、東池袋の路上で高齢者が危険運転によって多くの死傷者を出した事件があった。その時の高齢者に対する警察の動きの悪さや若い人たちの命が奪われたという悲劇の盛り上がりもあり、高齢者は「上級国民」と呼ばれ、ネットで個人情報をさらされ、攻撃されることとなった。

この攻撃に残念ながら私の友人たちの何人もが加担することとなった。きっとテレビやインターネットに感化されてしまったんだろう。

彼は自殺しなかったが、彼が自殺し、遺族が逆に裁判を起こそうとしたなら、攻撃した人たちはいったいどのような行動を取ったのか、非常に興味がある。なぜなら、この事例はリアリティショーではないから。そして、上級国民を暴き出したと快感を得るような人たちは、テレビやインターネットに簡単に感化される人間が嫌いなはずなので、どのように自分の正当性を保つのか非常に興味がある

さらに言えば、攻撃した人たちはたくさんの人たちが声を上げる喧騒の中で自分も声を上げたにすぎないと思っているのだろう。だが、現実はそうではない。暴力的なことを述べる人が身近な周りで自分しか居ないなら、それは自分だけが言ったことなのだ。Twitterだって同じことである。そういうことを言う人間がその人のタイムラインに自分しか居ないなら、それは自分が言ったことになる。

自分が何らかの空気を感じ取り、それを口にしているだけだと考えているのかもしれないが、その空気を選び取りわざわざ口にする決断をしたのは自分なのである。

邪悪は喧騒の中にいる自分に宿っているわけである。

これ以上そのような犠牲者が増えてほしくないと思うから、法律や諸々のルールがさらに厳しく作られてほしい。

木村花選手、お疲れ様でした。

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