社会とコミュニティ参加者としての投票の義務

先日、東京都知事選があった。私は都民ではないので選挙権を持っていなかったが、いろいろと悪い方向で考えさせられる選挙だった。

見世物化した政見放送を面白がって、それに乗らない者はセンスがないように思われるようなあの雰囲気は、率直に言って不愉快でしかなかった。とはいえ、日本の首都の首長になりたいと願う人たちである。その考え方に応じて、誰かには投票すべきであると思う。選挙が終わったので述べるが、私が都民なら宇都宮氏に投票していただろう。

先日の都知事選で東浩紀はTwitterでこのように述べていた。

とにかく投票に行けばよい、というのは確かに間違いであるし、Twitterであるから彼の意志は完全に表明されてはいないので皮肉めいて聞こえるが、この文章における考え方の方向は間違ってはいない(過日の衆議院における棄権運動は批判されるべきと思う)。

これを踏まえて、私は必ず投票に行かなければならないと主張したい。それは投票の義務が存在しているからではなく、投票が持つ意味そのものが大事だからだ。なぜなら、冒頭に述べたように投票権はなんびとにも与えられている権利ではないからである。

例えば、私の甥っ子たちには投票権がない。また、私と命を削りながら仕事をしている会社の台湾国籍、中国国籍、韓国国籍の人々にも投票権はない。地元のすぐ近くにある著名な多国籍団地であるいちょう団地の多くの人々にも投票権はない。ややもすれば、私と同等かそれ以上にコミュニティに従事している人たちが参加できない選挙とは何とも歪なものである。しかしながら、国家と地方自治にある種の制限をかけ、保守的に運営する上では少なくとも必要なものであろうと思う。

この状況を別の視点から捉えれば、私は同じコミュニティの投票権を持たないメンバーの意見を代表して投票しなければならないとも言える。もちろん、個人の思想信条に、個人だけに拠って投票することを否定しているわけではないし、優劣があると述べたいわけではない。だが、少なくとも個人だけに拠る善悪あるいは好き嫌いで白票や棄権によって票が消えてしまうことが残念でならないのである。

都知事選を例に挙げよう。確かに今回は難しい選挙であった。すべての候補が一長一短であり、最適解は存在しなかったであろう。だが、少なくとも最悪の選択肢は考えることはできる。

私と共に命を削って仕事をしているメンバーがこれからもずっと安心して、差別を受けず日本で仕事ができる状況であってほしい。近くの多国籍団地に住む人々も危険にさらされず日本で暮らしてほしい。そして、甥っ子たちが人のことを思いやり、すくすくと育つ世界であってほしい。私はそのような願いを持っている。したがって、私はまず排外主義あるいはそれに近しい思想を持つものが勝利することを防がねばならない。次に、子供たちの未来を案じていない人も除外する。

このように考えれば、自分が所属するコミュニティの安心安全を守るため、私自身の思想信条だけでは投票に気が乗らないとしても、コミュニティ参加者としての側面から投票する必要性が出てくる。

この忙しい生活の中で毎回毎回考えられていられないよと思う人がいるだろう。その通りだ、少しも間違っていない。本来なら4年や6年といったスパンで行われる選挙である。しかしながら、被選挙者の都合や不祥事によってこれよりも短いスパンで選挙が行われるから苦しいのだ(先述した東浩紀の積極的棄権運動の話もこのどうしようもなさから発せられたものだと思っている)。別の見方をすれば、度重なる選挙によって刷り込まれていく「考えるな、考える時間なんて作るな」ということに抗い、考えそして投票するということが主権者的であるともいえるのではないだろうか。

政治学者の宇野重規は「人と一緒にいること」がそもそも政治であると著作で述べていた。私たちはコミュニティに参加することによってすでに政治に参加している。私たちはコミュニティに恩恵を与え、逆にコミュニティから恩恵も受けている。この相互互助の関係において、被選挙人でなくとも投票者として意思表明をすることは大事なのである。

個人において、所属するコミュニティの組み合わせ種類に重複はない。コミュニティへの参加数と濃度が個人の思想信条の近似値になるように思われる。だが、投票する気がないからといって白票や棄権をすることはあなたの思想信条を相手に自由に解釈してもよいという言い訳を与え、私たちの愛するコミュニティへの介入を許すかもしれない。ゆえに私たちは自分の社会とコミュニティを守るために「思想信条に基づいて投票しなければならない」のである。

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