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全体主義は幸福の夢を見るか。考えたい、ワクチンの事。「ワクハラ」をしないさせないために。


 新型コロナウィルス発見から感染、発症事例が世界を賑わせて随分とたつ。世界はワクチン接種推進に躍起になり、世界市民へワクチンの接種をさせようとニュース一色になっている。私は、昨今の世界情勢を見るにつけ、戦時中の哲学者『三木清』の言葉が予言のように感じられてならない。
 我々の儚くも長い人類の歴史において個人の幸福の追求が脅かされる時、私たちは平時の穏和な心を失う。戦時中の日本国民はこんな気持ちだったのだろうか。そんな筈はないと思いながらも、もしかしたらという不安を抱え戦地へと赴いてしまう。ワクチンの接種も本来ならば、個人の熟考によって勧められるべきものだと筆者は考えているが、ワクチンを打っても何ともない人は、ワクチンを打つ事によって健康被害を被る人たちに酷く厳しい。日本でもワクチン証明書の義務付けがいつ始まってもおかしくないと考えている。
 弱者の1番の敵は、弱者に理解のない中間者である。

狂人の眞似をしなければ、正しいことが云へない時世かも知れない

『三木清全集 第19巻』(岩波書店)、pp. 177-178)

 この世相はまさしく、戦後と戦時中の日本そのものだと思う。我が国の全体主義に染まりやすいこの世相は如何に恐ろしい事だろう。もはや、学校の教科書などは知識を教えてくれても、生きる上での知恵や人間が身につけていくべき人徳などを与えてはくれないのではないか。私は映画「帰ってきたヒトラー(2015)」という映画を思い出す。ヒトラーが現代にタイムスリップして、ヒトラーのオマージュをしている物真似コメディアンとしてデビューする。最初はコメディタッチで描かれるが、段々とヒトラーに魅了される民衆と自分自身に笑う事が出来なくなってくる。
 果たして、日本人は全体主義を笑う事が出来るだろうか。今の世論を見るにつけ、他国や他者を笑う事など絶対出来ない、と私は思う。あの映画をもう一度見返すと、エンタメやコメディ色に彩っていた自分の人生の認識が、がらりとブラックジョーク化する。エゴの存在をまざまざと見せつけられる。自分の世界観が真っ向から変わっていってしまう。そんな空恐ろしい気持ちになる。

新型コロナウィルス自体は存在、する。

 「新型コロナウィルスは存在するか。」という議論に関しては余地がない。そもそもコロナウィルス自体は前々から存在していた風邪ウィルスの一種である。それの新型が出たという話だし、実際に遺伝構造の解析もされているので、「新型コロナウィルス自体は存在している」とされる。その存在理由が自然発生したものなのか、或いは人為的なものなのかはアメリカと中国の熾烈なやり取りがあったが、それさえも曖昧なまま問題は自粛とワクチン接種へと移行した。以前は新型インフルエンザが出たとマスコミが騒いでいたが、それと同じ事が起こったと思って差し支えがないだろう。
 では今のままで何の問題も無いのではないか、自粛もワクチンも正しいじゃないか、多くの人はそう思う事は、不思議なことではない。
 そもそも、新型コロナウィルスの致死率とはどのようなものなのか。新型コロナウィルスの存在自体に十分な議論がされているとは、私は思わない。とにかく危険なウィルスだ!という断定的な結論ありきの政策が世界中を駆け巡っている。

 現在、日本での新型コロナウィルスの特に世論の扱いは1類.2類のエボラ出血熱や結核などイメージが強い。日本人のパニックは感染症死のイメージが先行したものの結果であると言えのかもしれないが、データでは日本での致死率は世代間を問わなければ2%に留まり、さらに言えば健康な若者は0%である。その脅威は5類に引き下げるべきだある事を物語っている。

 取り分け警戒が必要なのは体力が落ちてくる60代後半からであり、免疫と体力があり肺や極度の肥満などの基礎疾患を持たない18歳以下から40代の日本人はエボラ出血熱や結核、死亡率7割と恐れられるペストなどと同じようにパニックになり、ワクチン接種を血眼で推進しすぎる必要があるのかはもう一度考えるべきでは無いか。
 若者の感染が増加傾向にある事が懸念されているという事だが、若者の感染自体にそれほど大きな悪因があるようには思われない。インフルエンザウィルスやマイコプラズマ肺炎なども感染し、免疫力や体力などの体内バランスを崩した結果、発症することを考えれば問題は免疫力が衰えているかどうかなのでは無いだろうか。

ワクチンを打つのに正しいも間違っているもない。

 昨今では、ワクチン警察や反ワクチン棒が日本の世論に色濃く滲みでるようになってきた。筆者は「皆、ワクチンを打ちましょう」と言うワクチン推進派も「ワクチンを絶対に打つな!」という絶対反対派の意見も好きにはなれない。どちらも結論ありきで話が進んでしまうからだ。

ワクチンは年齢やライフスタイル、個人の基礎疾患などを考慮した上で、自身の死生観などに基づき、個々人が判断する事を筆者は推奨したい。

 海外では、イタリアやアメリカなどを例にワクチンを義務化しようという動きが強まっている。

 しかし、これには強く抗議したい。個人の選択の自由を踏み躙るだけで無く、私はファシズムを助長するのでは無いかと懸念している。ワクチンは皆が絶対に打つべきものという認識は強硬で強引かつ抑圧的という意味でファシズム的である。同時にワクチンは絶対に打つべきで無いという強硬な反ワクチン派も行動や発言のエネルギーは同じだ。
 反ワクチン派の意見もここでは取り上げておきたい。彼らの主張は、新型コロナワクチンは強烈な副反応があるのと同時にワクチンに多額の寄付をし、人口削減を国際的なシンポジウムで堂々と口にするビル・ゲイツ、2019年にニューヨーク州のとあるホテルで実施されたウイルスによるパンデミックのシミュレーション「event201」、トランプ大統領の「D S(ディープステート、深淵の政府)」発言など、見るからに何か善良では無い思惑が国際金融資本には漂っている。
 また、アンソニー・ファウチ博士の武漢研究への資金援助などが海外では話題になった事も日本では取り上げられていないが、有名な話だ。

https://m.ntdtv.jp/2021/07/51311/

https://www.epochtimes.jp/2021/06/74057.html

 これらからワクチン反対派は、ワクチンは仕組まれたもので、対外的に健康被害を及ぼすとしている。実際に新型コロナワクチンの健康被害はいくつか報告されているのを見ると、彼らの主張は完全にデマという訳では無いのだ。
 あえて誰とは言わないが、元ワクチン推進大臣は「コロナウィルスワクチンには何のリスクもない」と豪語した。大物YouTuberを利用して言っていたが、それこそがデマかもしれないのだ。彼こそがギリシア哲学者プラトンが批判した強弁家、ソフィストそのものではなかろうか。タダより怖いものはない。ワクチンにもしっかりとリスクがある事も忘れてはならない。


 上に記載した表は、米国CDA公認のVAERSというデータシステムが示すコロナウィルスワクチンを接種した後に起こったとされる有害現象の統計である。左上から順に、死者、入院者、緊急処置、外来診療、アナフィラキシー、ベル麻痺がそれぞれの数値として記録されているものだ。つまり、コロナウィルスワクチンにより昨日まで健康だった人が突然健康を害される可能性はゼロではない。
 しかし、これらの表もコロナワクチン否定派からすれば、ほら見ろ!ワクチンは危険なものじゃ無いか!というデータ的証拠になり得るのかもしれないが、冷静に考えてみて欲しい。コロナワクチンの致死率とコロナウィルスに感染し、そして発症する致死率とではそう大きな違いはない。あくまでも、報告されている数値上ではあるが、もしもコロナワクチンに「皆が絶対に打ってはいけないものだ!」というほどの致死性があったのだとしたら、世の中でワクチンは2回接種している人がバタバタ死んでいないとおかしい。
 しかし、多くの人が新型コロナワクチンを2回接種したという人が身近に存在しているという昨今、そんな事を聞くのは稀である。

 つまり、新型コロナウィルスも、そのワクチンも健康を害する可能性があるという文脈において、弱毒性なのだ。

 我々は普段、農薬や添加物などの弱毒性のものを食べながら生活をしている。特に日本の農薬は深刻で、筆者もこれを気遣って水や自然栽培の野菜、また菜食主義などを実践しているが、完全にこれらのものを遠ざけるのは現状難しい。ワクチンも同じである。職業柄半強制的に打たされる人もいるし、打ちたくない人もいる。身体的な事が理由で打てない人もいるし、打たないと新型コロナウィルスの感染発症のリスクが高い世代もいる。

国際金融資本の思惑と広告は分離と対立。

 最後にまとめと筆者自身が個人的にワクチンを打つか打たないかどちらを選択したのか、その考えも伝えていきたい。ワクチンは個人による選択の自由を尊重し、強制的に推奨するものでも、打つ選択を反対するものでもない、と断言できる。多くの健康的な人にとっては新型コロナウィルスもワクチンも巨大な脅威とはいえない。打つ事を過度に煽るのも、国際金融資本の思惑を盾に過度に反対するのも、どちらもワクチンハラスメント、ワクハラである。
 筆者に言わせれば、1番のワクハラの加害的存在は過度にワクチン接種を煽り立てるマスゴミことマスコミだがそんな彼らの広告に踊らされている私たち国民も国民なのだ。
ワクチン推進派とワクチン反対派は対立しても滑稽なだけだ。政治にも右翼と左翼という互いの思想が対立する事がある。しかし、片翼だけでは空を飛ぶ事は出来ない。車がアクセルとブレーキが無いと不良品のように、平和の鳥は片翼を批判する事はない。それと同じ対立構造が新型コロナワクチンにも言える。推進もせず反対もするな。推進派も反対派も全体主義に陥っている。「皆、ワクチン打つべきだ。」「ワクチンは絶対に打つべきではない」
 筆者は27歳アラサーである。新型コロナウィルス自体の致死率的に言えば、0%にも等しい。健康診断では健康的な数値を維持できているし、また肺や気管支などの基礎疾患も持たないため、感染後、万が一発症しても軽症で済む確率の方が高い。ワクチン接種後の副反応からくる体調不良の一時的な免疫力低下による合併症も考慮すればワクチン接種後の健康被害の確率の方が0.0数%だが若干高いため、新型コロナワクチンは打たないことにした。
 それを誰かに批判されても、揺るがないと思う。もし新型コロナワクチンを接種するかしないかの選択をすることがあるとしたら、統計的な数値を見て40代後半から50代前半になどになってくるだろう。もしくは、それまでに基礎疾患が顕れば、打つ事を考慮にいれるという形だ。

 最後に映画「かえってきたヒトラー」のお婆さんの言葉と彼自身の言葉で締めくくりたい。

「昔も最初はみんな笑ってた。正体を知ってるわ。全部覚えてる。」

「君は分かってない。1933年も国民はプロパガンダで騙されてはいない。彼らが指導者を選んだ。明確に道筋を示した指導者を。国民が私を選んだ。」
「では、その怪物を選んだ国民がせめられるべきだな。皆が怪物か?いいや、普通の人々だ。彼らはただ、非凡な者を選んだだけだ。そして、国の命運を託したのだ。」
「何故、国民がこの私に付いてくると思う。心の底で共感しているからだ。同じ考えを持っている。
私を消す事は出来ない。私は君らの中に中に存在している。」

 私はエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」を思い出す。

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