人は本質的に自由になる事ができない
人は本質的に自由になる事ができない。何かのチャンスを得て、ある制約から自由になったと思ったつもりでも、時間が経てばまたその上位概念の制約に気付き、その制約から自由ではない自分に気付く。
どんな金持ちであれ不老不死にもなれないし、1日20食も食べ続けたり、排泄を一生しないなんて事はできない。何なら自分や他人の本質的な心さえ、私達は自由には操れないのである。
つまり、自由になりたいと考えている内は一生自由になれないのだ。自由な人生なんて真っ赤な嘘である。あなたが自由になれば、どこかの誰かが自由ではなくなるのだ。それなのに強引に制約を無視してあなたが自由になろうとするならば、あなた自身の身体が反応してあなたの自由を止めようとするか、あなたに自由を奪われた他人が様々な形でいずれあなたの自由を奪い返そうとするだろう。
結局の所、人々がいう自由な人生とは、周りの人よりも相対的に自由というだけで、本質的に私達は自由にはなれないのだ。
そして大事な事は、自分と世界の間にある制約の中で選択できる自由を見つける事である。それは数え出したらキリがない程に沢山ある。
何を食べるか、何を飲むか、どこに座るか、どこに寝るか、誰と話すか、何を話すか、いつ起きるか、何を勉強するか、どれくらい働くか、どのように考えるか。
私達はいくつかの制約の中にあるとてつもない数の選択肢の中から絶えず自由に選択をしている。これは自由ではないのだろうか?
つまり、私達が自由を得るには制約が必要なのである。そして制約無くして自由という概念は成立しないのである。何故なら、もし制約が無ければ自由という言葉が存在する意味が無いからである。
そして私達とこの世界の間にある制約の最もプリミティブな輪郭は自然であり、その中で最も身近なのは私達の身体だろう。私達は気付いたら生まれ、その瞬間から少しづつ老いていき、いずれ誰しもが死ぬ。私達は好きな時代に好きな容姿で好きな親の元に自由に生まれるなんて事もできないし、永遠に生きるという事もできない。そもそも、その人がもし永遠に自由に生きる事を選んだとするならば、その人は自由を深く恨むだろう。
重力のような自然現象も制約だらけである。私達はワイングラスをテーブルから落としたらきっと割れるだろう。ワイングラスが落ちた時だけ無重力という訳にはいかない。その割れたガラスをもし誤って足で踏めば皮膚は裂け、血が出て痛みを感じるだろう。ワイングラスを踏んだ時だけ足が石になるというのはファンタジーの世界である。
そして私達の身体は制約だらけである。犬の様に鼻も効かなければ、猫の様に暗闇で物を判別して自由に歩く事もできない。鳥の様に空も飛べないし、魚のようにエラ呼吸で水の中を泳ぎ続ける事もできない。実に制約に満ちている。
同じ人間だってみんなそれぞれ個別の制約を持っている。足が短い人もいれば顔が個性的なんて言われる人もいるし、心臓が弱い人もいれば、頭皮の毛根が弱い人もいる。人間は長い歴史でこれらの制約から少しづつ自由になる方法を模索し、現代においては今あげた制約から自由になる方法が実際に沢山出てきている。自分の努力次第で制約から自由になって満足するのならば、自由にすればよい。しかし忘れてはいけないのは、これらの制約はその時代の潮流や他者との相対的な比較による良し悪しの価値基準に依拠しているものであり、そういったものから自由になった所で、結局私達は自然や死のような制御できない制約に向き合わなければならず、どんなに制約から逃れようとしても、本質的に私達は自由にはなれないのである。
制約から自由になろうとするから、自由でない事に苛まれるのである。そして他者と比べて自分の自由度を推し測ろうとするから様々な制約に執着して疲弊するのである。そうではなく、自分の周りにある様々な制約を携えて、能動的に自分の身の回りにある自由に自覚的になる態度が、あるべき自由との向き合い方なのである。