なぜ人は学ぶのか

はじめまして。山浦清透です。

このnoteでは教育をテーマに、考えたこと・学んだことを書いていきたいと思います。

教育は変わらなければいけない!教育改革が必要だ!

色々なところで、教育の変革の必要が訴えられています。
私も教育は転換期にきていると思います。

教育の変革を考えるとき、どのように教育を変えたらいいのかという「手法」が盛んに議論されていますし、私自身もそちらを考えてしまいがちです。

でもそこでは、「そもそも教育とは何のためにあるのか?」「現代において教育が果たすべき役割とは何なのか?」といった、教育の「そもそも」が置き去りにされているように感じます。

教育は何のためにあるのか。
現代において教育が果たすべき役割とは何なのか。
教育の役割を果たすためにどのような手法が考えられるのか。

教育の「WHY」「WHAT」を改めて考察した上で、教育の「HOW」について考えていきたい。これがこのnoteのテーマです。

初回である今回は、教育について考える前に、「学ぶ」ということから歩みを始めたいと思います。

教育とは、対象者が何らかを学び成長するための行為です。ではそもそも、何のために人は学ぶのでしょうか。学ぶということにはどのような意味があるのでしょうか。

まずは「学ぶ」という言葉の意味から考えてみます。「学ぶ」という言葉は、いかにも「主体的に」行動する、という響きがあります。自ら行動し、何かを知ったり身に付けたりする行為。これをここでは「学び」と定義しましょう。

ではなぜ人は自ら学ぼうとするのでしょうか。

佐伯胖は『「学ぶ」ということの意味』で、「学びがいがありそうだから」と答えています。学びがいというのは、「学んでよかったと思えそうだ」「わからないけれでも、ともかく、何かよいことになるだろう」という希望をいだいていることです。

学んでよかったと思えそうなものというのは、もちろん人によるわけですが、アリストテレスは『形而上学』で「3つの知識」を考えました。①実用の知②快楽のための知③学問的な知、です。

実用の知というのは、生活に必要な知です。自転車通学する人だったら自転車の乗り方を知らないといけないし、サラリーマンなら自分の業務の専門知識が必要です。これらは全て生活に必要な、実用の知です。

快楽のための知というのは、より楽しく、より快適になるための知です。私は趣味で将棋を指すのですが、趣味の学習などは楽しむための知と言えます。

学問的な知とは、「なぜそうなったのか」という事象の原因を知る知です。実用のためでも、快楽のためでもなく、世界の理を知りたいがために追求する。これが学問です。

3つの知識は言い換えると、①体にとってよさそうなもの②心にとってよさそうなもの③脳にとってよさそうなもの、を人は学んでいるということです(本川達雄『何のために「学ぶ」のか』より一部引用)。

人は体にとってよさそうなものを吸収しないと生きていけません。体によさそうなものとは、生活を送っていく上で必要なものです。例えば人間関係を良好に築く方法だったりお金を稼ぐ方法です。

一方で、人は体にとってよさそうなものだけでは、生きていても満たされません。体だけでなく、心の栄養もとっていかないと、心が乾ききってしまいます。音楽や絵画を楽しんで心に栄養を与える。そういった芸術などは心にとってよさそうなものです。

体のためでも心のためでもないけど、自分が生きている世界がどうなっているのかを知りたい。世界を知ることで、自分の世界を広げたい。自分が世界の中のどこに位置しているかを知って、安心したい。これが、脳にとってよさそうなものを学びたい、という欲求です。そして脳にとっての栄養分を学ぶのが学問になります。学問を学ぶことでものの見方を身に付けることができます。私たちの世界はどうなっているのか、自分の生き方はこれでいいのか、という世界観をつかむことができるのです。

千葉雅也は『勉強の哲学』でこのことを「勉強とは自己破壊だ」と表現しました。自己破壊とは、これまでの「ノリ」から自由になるために行うことです。

さて、「ノリ」とは一体何のことでしょうか。ここで、自己でない全てを「環境」と定義することにします。私たちはみな、この環境に依存して生きています。環境には「こうするもんだ」という暗黙のルールが存在しています。学校や会社では、「こう行動すべきだ」「こういったことをすると浮いてしまう」といった暗黙知がありますよね。このように、環境によって私たちの行動というのは方向づけられています。環境の方向づけに合わせている状態、これがノリになります。

環境の暗黙のルールというのは何によって形成されているかと言うと、言語になります。言語が環境の中で意味を与えています。私たちが生きている環境というのは、言語によって構築された世界なわけです。

言葉を変えれば、新たな言語を学ぶことによって、新たな環境で生きれるということを意味しています。言語によって構築された世界Aから、言語によって構築された世界Bへ行けるということです。これは、世界Aのノリ、つkまりこれまでのノリから自由になることであり、このことを千葉雅也は「自己破壊」と表現したわけです。

ところで、世界Aのノリから自由になり世界Bへ行っても、世界Bには世界Bのノリが存在しています。世界Bへ行くということは、世界Bのノリを身につけるということと同義なわけです。私たちはこれまでのノリから自由になっても、別の世界のノリにとらわれるわけです。そこで世界Bでも新たな言語を学び、世界Cへと行く。このように、今いる世界のノリから自由になるための旅を私たちは続けていきます。

自己破壊を繰り返しながら学び続ける、これが学びという営みです。学びは完成することなく、一度完成しても、次の完成に向けて自己を破壊していきます。学びとは、自己を作り替え続けることです。

というわけで、今回は学びをテーマに書いてきました。私たちは「学ぶとよいことがありそう」だから自主的に学びます。それは、生活に必要なことであったり、楽しいことであったり、世界と自分を学び自分を変えていくことであったりします。学びというのは未来を良くすることであって、学ぶという行為をすることは、「未来が良くなる」という希望を持って生きるということなのです。

※このnoteは、教育の「そもそも」について改めて考えていくことをテーマにしています。たくさんの方とディスカッションし、私自身も理解を深めていきたいので、ぜひご意見をTwitterやリアルな場でお聞かせください。

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