西暦で見た幕末・維新(14)~人材登用~

【■はじめに】
歴史に対する見解は諸説あり、異論・反論もあるかと思います。
これはボクが読んだ書籍等から、そうだったのかもと思ったものです。
ですので、寛大な心で読んでいただければ嬉しいです。
また年代・人名・理解等の誤り等のご指摘や、資料のご紹介をいただければ幸いです。
では、始めさせていただきます。


老中首座・阿部正弘あべ まさひろは、ペリーが持ってきたアメリカ合衆国フィルモア大統領の親書(英文)のオランダ語訳版・漢語訳版を、日本語に訳した物を、諸大名から町民に至るまで情報公開し、広く意見を求めました。

その結果、提出された意見書は800通あったとされています。
(記録に残るものは719通とする説もあり)

加藤祐三氏はその意見を以下のように大きく三つ分けています。

第一がアメリカの要求を拒絶し現状を維持すべしとする意見で、諸大名の間に根強い多数意見である。

第二が部分的な開国に応じるべしとする消極的開国論、第三が積極的開国論である。

日米間の戦力差の認識がまったくない第一の意見に比べて、後ろ二者に共通するのが日米間の戦力差の認識で、交戦だけはぜひ避けねばならないという強い「避戦」意識がある。

「開国史話」 加藤祐三

第一の意見である現状維持、すなわち鎖国政策を維持するというのは、わかるのですが、第二の消極的開国論、第三の積極的開国論の違いは何でしょうか。
加藤祐三氏は以下のように分けています。

消極的開国論説は、外国の強い開国要求を実力で阻止するには軍備が極端に貧弱であり、開戦はまったく不可能である。手をこまねいていては併合されかねないから、最小限の妥協に止めよ、とする見解であった。
石炭供給などで年限を決めて貿易を始め、その間に軍備増強をはかり、貿易に利益なしと分かれば中止するというもので、三奉行の見解はこれに近い
 
これに対する積極的開国説は、(ア)諸外国の要求は拒否できない、(イ)開戦は避ける、(ウ)大型外洋船を所有する、の三点では消極的開国説と共通する。だが、開国の具体策が違う。

軍備を整えるために必要な財源に、開国・開港による貿易の利益を当てるべきと明言する。その軍備とは旧来の海防論(砲台による専守防衛)を越えて、海軍を持つべきとする意見、言い換えれば「国防」から海軍創設へと転換、貿易収入をその財源とする見解である。
 
大砲ばかりか海戦も日本は圧倒的に劣るから、武器類が整わないうちは絶対に戦争をしてはならないと強調する。鉄砲の備えは、西洋では1000人に1000丁に対して、日本では30丁という差があるため、まず交易をすすめ、その利益をもって武備を整えよと主張する。

「開国史話」 加藤祐三

積極的開国論者ですが、加藤祐三氏によると、彦根の井伊直弼いいなおすけ小普請組こぶしんぐみ(幕府直参の旗本・御家人の、家禄3000石以下で無役の者)の勝麟太郎かつりんたろう(勝海舟)とともに、韮山にらやま代官の江川英龍えがわひでたつや、江川英龍えがわひでたつ配下の手附(てつけ)の高島秋帆たかしましゅうはんなどがいたそうです。

ただし、数でいえば圧倒的に第一の鎖国政策を維持が多く、次いで第二の消極的開国、第三の積極的開国はごく一部にとどまっていたようです。
まだまだ多くの大名や旗本・御家人はじめ、自分たちを取り巻く世界が大きく変わり始めていることに気づいている人たちは一握りでしかなかったのでした。まだこの時期の日本における支配階級の人たちの意識はそのようなものでしかありませんでした。

老中首座・阿部正弘あべ まさひろはペリーの再来航に備え、広く人材の登用を始めます。

アメリカより帰国した、ジョン万次郎こと、中浜万次郎を土佐より呼び寄せ、江川英龍えがわひでたつの江戸屋敷に住まわせます。

また、上記にも名前が出ていますが、無実の罪で投獄されていた天才砲術家の高島秋帆たかしましゅうはんを11年ぶりに出獄させます。

他にも永井尚志ながいなおむね岩瀬忠震いわせただなりなど、この後、日本開国の鍵となる人材の多くは、この時期に老中首座・阿部正弘あべ まさひろによって、集められたと言えます。


■引用・参考資料


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