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[歴史の断片]「三方ヶ原合戦」の発端、三説ご紹介(2440文字)

大河ドラマ『どうする家康』第17回の『三方ヶ原合戦』は次回が気になる終わり方でしたよね😆。

最初は、家康が出陣を決意するまでを、

①浜松城に籠り、進行する武田軍に対し籠城戦に持ち込むつもり満々の家康と家臣(と織田からの援軍)たち
②しかし武田軍は浜松城に向って来るかと思ったら、進路を変えて浜松城をガン無視で素通りする

といった感じで描いています🤔。

そして次に家康と家臣たちが混乱しながら軍議を行う内容が描かれます。

①信玄の狙いは岐阜の信長で、浜松城攻略で兵力の消耗をさけたのだ
②岐阜の前に三河・岡崎があり、信玄はこれらをたやすく陥とすだろう
⓷しかし武田軍は強く、無策に追って野戦をしても負けることは明らかだ

考え抜いた家康は、自軍が武田軍より有利な点を見つけます。

それは、地の利がある(浜松の地形を武田軍より知り抜いている)こと。

武田軍が欠下の坂道を上りきった先は三方ヶ原。
その先は、身動きのとれない祝田(ほうだ)の細い崖道。
そこを後ろから突けば、武田軍にかなりの損害を与えることができるはず。

という目論見で、家康たちは一丸になって、浜松城から武田軍追撃へと打って出るわけですが、そこには……。


ところで、三方ヶ原合戦前の浜松城で行われた軍議について、『どうする家康』の時代考証を担当されている平山優氏が『新説 家康と三方原合戦』で以下の指摘をされています。

ところで、仔細にみると、この軍議の場は近世の軍記物に記述される浜松城ではないのだ。

『三河物語』では、徳川軍はすでに浜松城を出陣しており、武田軍を追尾しながら、その行軍の過程で軍議を行っていることがわかる。

つまり私も含めて、軍記物の記述に影響され、軍議は浜松城で行われたのだろうとの前提で『三河物語』を読んでいたのだ。
これは完全な誤読といえるだろう。

『新説 家康と三方原合戦』 著:平山優 より引用

マジすか!!(⦿_⦿)! 『現代語訳「三河物語」』を開いてみると、

 信玄は(略)、三河へでて、東美濃へでて、それから京へ攻め上がろうと、三方ガ原(浜松市北区)へ攻め込んだ。
(略)
 元亀三年(一五七二)十二月二十二日、家康は敵が浜松から三里のところまでやってきて、出陣する

「一合戦しよう」とおっしゃると、年寄りたちが皆「今日の合戦はどうでしょうか。敵に人数は三万あまりと思われます。信玄は熟練の武者でもあり(略)しかも、味方はわずかに八千ほどでございます」と申し上げる。

「そのことはしょうがない。(略)戦は多勢無勢で結果が決まるものではない。天運のままだ」とおっしゃると、みなもあれこれいうこともなく、攻めよせた。
 
 敵が祝田へ半分くだったところに攻撃をかけたなら、たやすく勝てただろうが、はやって早くしかけてしまった
 信玄はたびたびの合戦に場慣れしていたので、すぐに魚鱗の陣をしき敵にむかった。
 (略)
 わずか八千の兵だったので、三万余の大敵と、粉骨砕身せりあったが、信玄の本体に攻めかえされて、敗退した。

『現代語訳 三河物語』 著:大久保彦左衛門 訳:小林賢章より引用


あ、ほんとですね、出陣したあとで軍議してるし (⦿_⦿)!。

しかも祝田を半分くだったところで攻撃したら勝てたのに、はやまって攻撃をしでかし、信玄の反撃を喰らって負けたと・・・。
家康ぅ・・・(⦿_⦿)。

しかし、平山優氏は『三河物語』ではなく、史料『信長公記』を用いて、三方ヶ原合戦の発端を読み解きます。

武田信玄堀江の城へ打廻らせ相働き候、家康も浜松の城より御人数出され、見方が原にて足軽共取合ひ
(略)
『信長公記』の筆者太田牛一は、家康が信玄を追尾した理由を、武田軍が堀江城に向ったことにあるとしている。

『新説 家康と三方原合戦』 著:平山優 より引用


なぜ堀江城に武田軍が向かったことで、家康は出陣を決意したのでしょうか?。

堀江城(略)は、浜名湖水運を掌握する要所であった。
もし、堀江城が攻略され、庄内半島が武田方の手に落ちれば、浜名湖水運の主導権は、武田方に奪われてしまうことになる。

 この事態を、家康は絶対に阻止しなければならなかった。
既述のように、徳川氏と浜松城は、その補給の軸足を、浜名湖水運に置いていたからである。

『新説 家康と三方原合戦』 著:平山優 より引用

浜松城補給の軸足である浜名湖水運を押さえようと目論む信玄の目的を見抜き、阻止せんと打って出る家康。
しかし、そう打って出ざるをえない状況に家康を追い込んだ信玄は、三方ヶ原で迎え撃つ・・・。

お、なんだか、こっちのほうが家康を上回る信玄の凄さが感じられますね! (⦿_⦿)。

一方、黒田基樹氏の『徳川家康の最新研究』では、史料『当代記』の記述から、三方ヶ原合戦を読み解いています。

これによれば、信玄は二俣城の普請を終了させ、在城衆を置くと、二十二日に出陣し、井伊谷領都田(浜松市)を通過して三方原に進軍した。
 
そこへ徳川軍の物見勢一〇騎・二〇騎が攻撃し、武田軍と交戦状態になったので、家康はこれを救援するため浜松城を出陣、思いがけず武田軍と合戦になってしまった。徳川軍は敗北し、千人余が戦死した。
(略)
家康はそれら家臣を救出するために出陣してきたが、逆に戦闘に巻き込まれて、武田軍と本格的な合戦になってしまったという、いわば偶発的に生じたものであった、とみることができる。

徳川家康の最新研究著:黒田基樹より引用
 

こちらは偶発説ですね!巻き込まれちゃったのか、家康! (⦿_⦿)。

というわけで、『三河物語』、『信長公記』、『当代記』、それぞれの史料から、異なる三方ヶ原の発端が読み解かれていることのご紹介でした。

果たして、真実の三方ヶ原はどうだったのでしょうか。
たぶんそれは永遠のミステリーなのでしょうね。

ボクは平山優氏の説が好きなのですが😆

■引用資料
『新説 家康と三方原合戦』 著:平山優
徳川家康の最新研究著:黒田基樹
『現代語訳 三河物語』 著:大久保彦左衛門 訳:小林賢章


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