西暦で見た幕末・維新(8)~余談:吉田松陰、飛ぶが如く~

やむにやまれぬ事情により(としか言いようがないのですが)、江戸遊学中に、あろうことか脱藩の罪を犯し、その罪により長州藩士の身分を取り消しにされた吉田松陰ですが、不思議なことに長州藩はこの若者に10年間の遊学許可を与えます。
つまり藩士ではないが、今後10年間、日本中のどこでも好きなところに行って好きなことを学べということです。
おそらく長州藩主、毛利敬親(たかちか)の温情でしょう。

毛利敬親、この時は慶親(よしちか)と名乗っていました。
1864年8月20日に起きた長州藩と会津・薩摩藩との軍事衝突である「禁門の変」(「蛤御門の変」とも)の責任をとるかたちで、12代将軍の徳川家慶から賜った「慶」の字を召し上げられ、以降毛利敬親と名乗ることとなります。
 
「そうせい侯」とも呼ばれ、部下の進言にはなんにでもうなづくと言われたりしていますが、長州藩財政改革に村田清風を登用するなど、決して暗愚な藩主ではなく、人の才を見抜く能力に優れていたのではないでしょうか。
吉田松陰に対する温情も、その才が埋もれてしまうのを惜しんだのではないかと思われます。

遊学の許可を得た松陰は、大坂の学者たちと交流を重ねたのち江戸に入り、ペリーが艦隊を連れて江戸湾に姿をみせた1853年7月8日に師である佐久間象山を訪ねます。

翌7月9日に長州藩藩邸に顔を見せると黒船が浦賀にやって来たことを知らされ、慌てて象山のもとを訪ねますが、すでに象山は浦賀へと向かったあとでした。

じっとしていられなくなった松陰は、象山の後を追い、浦賀へと向かいます。
長州藩藩邸に残された松陰の手紙には、(陸路も海路もいつ通行禁止になるかもしれないので)『心 はなはだ急ぎ 飛ぶが如し、飛ぶが如し』と記されていたそうです。
当時の人はこのような文学的な表現を手紙にしたためる文才が普通にあったのか、それとも松陰だからでしょうか。

7月10日午後10時に、松陰はようやく浦賀に着き、象山と出会います。
翌朝、象山と松陰は高台へと登り、ペリー率いるアメリカ東インド艦隊を見ます。

このまま戦闘になったら、陸戦に持ち込むしかわが方に手段がない。だから船と大砲をつくれとやかましく申していたのに、と憤懣やるかたない象山でした。
一方、松陰はー。
7月11日に長州藩の友人宛に『日本武士一へこ(褌)しめる機会来り申し候。賀すべきも亦大なり(太平の世に慣れてしまった武士たちが気を締め直すことを期待する)』と手紙を書いています。

松陰はここで、久里浜に上陸したペリーが、大統領の国書を徳川幕府に手渡す様子の一部始終を見届けるのでした。


引用・参考資料
■「吉田松陰とその家族 兄を信じた妹たち」著:一坂 太郎 出版社:中央公論新社

■「吉田松陰とその門下」著:古川 薫 出版社:PHP研究所


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