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小説・Bakumatsu negotiators=和親条約編=(6)~最恵国待遇~(1351文字)

※ご注意※
これは史実をベースにした小説であり、引用を除く大部分はフィクションです。あらかじめご注意ください。


1854年2月2日、長崎における、プチャーチンと日本全権団との最後の交渉が行われます。

川路 聖謨かわじ としあきららの日本全権団は、条約の検討は時間を要すること、樺太は北緯50度以南は日本領であることといった従来からの主張と、漂流民の救助などについては歩み寄りを見せ、加えてそして全権団は江戸に戻ったあと、ロシアは信頼できる国家で、プチャーチン提督は信用に値する人物であると幕府に報告すると記した書面をプチャーチンに提出しました。

プチャーチンは、ロシアの最恵国待遇を求めました。
「つまり、貴国がオランダ以外の国と通信通商を行う場合は、ロシアにも同様の通信通商を行うことを認めていただく、ということです」
 
プチャーチンの申し出に、「心得ました」と川路 聖謨かわじ としあきらは頷きました。
 
徳川幕府の方針は、ロシアともアメリカとも通商を認めないというものであったことから、ロシアに最恵国待遇を認めても問題ないと判断したのかも知れません。
 
これにプチャーチンは大いに満足し、文書にしてまとめることを要求し、川路 聖謨かわじ としあきらは了承します。

樺太の国境問題については後日現地を行ったうえで、再訪して再度協議することで、(実質的には問題の先送りでしかありませんが)双方の合意が得られました。
長崎における日露交渉は実質、この日で終了となり、その後宴会が船上で行われました。。
 
1854年2月3日、勘定組頭・中村為弥なかむら ためやが、プチャーチンが要求した文書を持ってパルラダ号を訪れ、これを手渡します。

1854年2月4日、プチャーチンらが上陸し、送別会が催されました。

1854年2月5日、プチャーチンは川路 聖謨かわじ としあきらら全権団に、再び日本に訪れることを告げ、4隻のロシア艦隊を率いて長崎から去って行きました。

プチャーチンの艦隊を見送った川路 聖謨かわじ としあきらは、風邪のため数日寝込みます。

回復後、川路 聖謨かわじ としあきらは、長崎のオランダ商館などを見学し、帰路の途中に立ち寄った佐賀藩では、幕府からの依頼による大砲鋳造を視察しています。

プチャーチンに対し、ぶらかしに徹することが出来て、肩の荷が降りた川路 聖謨かわじ としあきらら全権団の、江戸への帰路は心が軽いものでした。

次は、春に来ると言って去って行ったペリーの対応となるが、紳士的であったプチャーチンと違い、ペリーは武力による威嚇で交渉に臨んでくるだろう。
台場が完成すれば、少しはペリーに対する圧力になるだろうが、問題は春までに完成するかどうか・・・、などと考えを巡らせていた川路 聖謨かわじ としあきらでしたが、帰路の途中の尾道で、幕府からの緊急の文書を受け取ります。

それは、ペリーが浦賀に来航してきたので、急ぎ江戸に戻れ、というものでした。

ペリー自らが、春に来るといったはずではないか。これはどうしたことか。
 
想定外に早いペリーの再来航に川路 聖謨かわじ としあきらたち全権団は、江戸への帰路を急ぐのでした。
(続く)


■参考文献


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