小説・Bakumatsu negotiators=和親条約編=(3)~交渉2日目~(2525文字)
※ご注意※
これは史実をベースにした小説であり、引用を除く大部分はフィクションです。あらかじめご注意ください。
1854年1月22日。
2回目となる日本とロシアの交渉が行われました。場所は1回目と同じ長崎奉行所の西役所。参加者も同様でした。
川路 聖謨が、まず口を開きます。
「貴国のゴローニンと申す御仁が著した『遭厄日本紀事』を呼んだことがあります」
ゴローニン。ヴァシーリイ・ミハーイロヴィチ・ゴロヴニーンとして記すのが正確なようですが、ここではゴローニンとして記載させていただきます。
この人物は、帝政ロシアの海軍軍人で、軍の命令により千島列島の測量を行うも、測量中に国後島で幕府役人に捕縛され、函館で2年間余の獄中生活を送ることになりました。
その間、間宮林蔵と会ったり、現地の日本人通詞にロシア語を教えたりしたと言われています。ロシアへの帰国後は、『日本幽囚記』を表します。
『日本幽囚記』は西欧各国で翻訳出版され、日本に対する認識を大いに広めました。
日本でも、オランダ語訳の『日本幽囚記』が幕府の命によって、1825年に訳されています。その際、『遭厄日本紀事』と名付けられており、川路 聖謨が言ってるのは『日本幽囚記』のことです。
「『遭厄日本紀事』で、ゴローニン殿は、貴国と日本との国境は、ウルップ島と択捉島の間、としておられます。プチャーチン提督が何故、択捉島の所有について、審議の必要ありとするのでしょうか」
帝政ロシアにおいても、川路 聖謨が指摘した認識が一般的であった模様です。
それを示す史実を以下に引用します。
しかしながら幕府のこの方針は、悪天候によりロシア側に伝えられることはなく、またロシア側も択捉島に着いたものの日本側の使者に逢えることも無く、すれ違いのまま意思疎通は行われませんでした。
とはいえ、ロシア領はウルップ島までということが、プチャーチンと川路 聖謨が交渉している時点で、世界ではデファクトスタンダードになっていたと思われます。
知らなかったのは日本側だけだったのかも知れません。
だからこそ、川路 聖謨はゴローニンの『遭厄日本紀事』の記載を持ち出したのです。
「ゴローニンは国境策定の命を受けた者ではありません。したがい、その著とするものに何が書かれていようと、根拠にはならないのです」
とプチャーチンは川路 聖謨の意見を一蹴します。
そう言ったものの、プチャーチンもそれは十分承知の上であり(また別の理由もあり)、最終的には、択捉島以南は日本領であるとする腹積もりだったと思われます。
あくまでも交渉術として、最初は強く押し、最終的に譲歩した形にして、その代わりとして、相手の譲歩を引き出すつもりだったのではないでしょうか。
択捉島の所有の件については一旦そこまでとし、続いて樺太島の国境策定交渉に入ります。
「まずは、樺太島の国境を策定するのであれば、貴国が樺太島に派遣している軍隊を撤退させべきでしょう」
この時、ロシアは樺太に国境守備隊を派遣していたのですが、プチャーチンは事前にそれを知らず、その事実を知ったのは交渉に入る前の時期でした。
「その件については、我が国は樺太全島を占領するつもりはなく、あくまでも他国の侵略を阻止するためのものです。国境が策定され次第、速やかに撤退することでしょう」
プチャーチンの返答に対し、川路 聖謨は、樺太の国境は北緯50度としたいと意見を述べます。
すでに西洋社会の世界地図では樺太は北緯50度が日露の国境となっていたのです。
オランダ通詞の西吉兵衛がこのことを発見し、その情報が川路 聖謨へと、もたらされていたのです。
「貴国の人は、樺太南端のアニワ湾に20名ほどが居住しているだけではありませんか。我が国はすでに北緯50度より南に炭鉱を開いています。国境を北緯50度とする提案には同意できません」
「では、プチャーチン提督は北緯何度を国境とされるおつもりか?」
川路 聖謨の質問に、プチャーチンは地図がないと提示できないと回答をはぐらかせます。
樺太の国境設定も同意をみないまま、交渉は再び通商問題へと進みます。
「我々は貴国に対し、2か所の開港を要望します。もし江戸近海が無理ならば、大坂の開港とし、残り一港は、松前か箱館(函館)のどちらかを開港し、我が国の艦船の物品補給を認めていただきたい」
「通商については、前回も申しましたがー」川路 聖謨が再度説明しようとするのを遮り、プチャーチンは言います。
「なにゆえ、貴国は通商を行うことに怯えるのか。通商によってこそ、国家は富み、国民の生活も向上するのです」
プチャーチンの言葉は、川路 聖謨にとって耳に痛いものでした。彼もまた同じ考えだからです。
しかし、幕府の命令は、ロシアとは何も決めずぶらかしに徹せよ、です。
同意は決してできません。
「プチャーチン提督。我が国は鎖国政策があまりにも長く、まだ交易というものを知らないのです。いわばまだ赤子のようなもの。交易を学び習得するまで、成人となるまで待っていただきたい」
結局、2回目の交渉も何ひとつ決まることなく終わるのでした。
(それは徳川幕府にとって、最終目的である、なにも決めないという点において、望ましい結果ではありましたが)
【続く】
■参考資料
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