【歴史のすみっこ話】桶狭間で勝者と敗者を分けたのは何ですか?=その5=
■花倉の乱で太原崇孚雪斎は何をしていたのですか?
前回、花倉の乱の顛末をざっくりと書いたのですが、寿桂尼の要請(と思われる)北条氏綱の助力などが、今川義元側の勝利に大きく貢献したと思われます。
ところで、ひとつ気になるのが、今川義元を語る上で欠かすことのできない重要人物のひとり、太原崇孚雪斎の動向です。
花倉の乱で、太原崇孚雪斎は何をしていたのでしょうか。
小和田哲夫氏の著書「今川義元」ではこう書かれています。
ところで、この一連の花蔵の乱において、雪斎はどうしていたのだろうか。
文書・記録でみるかぎり、雪斎は表面上何の動きもしていないようである。
しかし、表面に見えないからといって、雪斎が何もしなかったとは思えない。
つまり史料の上で、太原崇孚雪斎が、義元軍の指揮をとった等といった明白な記録がない状態です。
なので、雪斎ほどの人物だから、きっとこういうことをしたであろうと推測を述べるしかできないのが現状なのでしょう。
仏門に入った今川義元の補佐役として、義元の父、今川氏親 に請われた臨済宗の僧、というイメージがありますが、太原崇孚雪斎の両親は、ともに今川家の重臣の家柄で、まったく今川家と関係がなかったわけではありません。
しかし臨済宗の僧である太原崇孚雪斎がなぜ軍略・外交・内政の素養を持っていたのか、都合がよすぎる様な気もするのですが、小和田哲夫氏はこう推測しています。
その後の雪斎の軍略などを考えると、建仁寺、さらには妙心寺修業時代に、雪斎はいわゆる武経七書(ぶけいしちしょ)といわれる中国伝来の兵法書を習得していたのではないかと考えられれる。
ちなみに、「武経七書」は『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子』『三略』『六韜』『李衛公問対』の七つをいうわけであるが、いずれも漢文で書かれている。
すでに述べたように、建仁寺は五山文学のメッカであり、そこでの学問の中心は漢詩文の読解ならびに創作であり、漢文はお手のものであった。
雪斎は「武経七書」を読みこなし、それをいつでも応用できる立場にあったのである。
武経七書(ぶけいしちしょ)は中国の代表的な兵法書です。
僧侶なのに、とついついおもってしまいますが、実のところ、太原崇孚雪斎は兵法書を読みこなし、理解・応用のできる武将(もしくは宰相)的存在であったと言えるのでしょう。
そして、今川家の当主となった義元と太原崇孚雪斎主導のもと、今川家はそれまでの外交方針を大きく変更させます。
敵対関係にあった、武田家との同盟関係へとー。
そしてそれは、義元も太原崇孚雪斎も、おそらく想像しなかっただろう北条氏綱との対立、『河東一乱』を産むことになるのでした。
【続く】
■参考資料
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