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西暦で見た幕末・維新(23)~進む全権団、去る松陰~

※参考資料を基に、情報の取捨選択や当方の主観による脚色がされています。ご了承ください。


1853年12月10日、プチャーチン率いるロシア艦隊が長崎から出航したとの情報を知った川路 聖謨かわじ としあきらの脳裏に、しびれを切らしたプチャーチンが江戸に向かったのでは、という最悪の事態の予想がよぎりました。

しかし、よくよく考えれば、全権団が長崎に向かっていることは、プチャーチン側にも伝わっているはず。
それを、無視してプチャーチンが江戸へと向かうという行動を選択するということは、にわかに考えにくいことでした。
 
とはいえ、すでにロシアの艦隊が長崎にいないことも事実。なのに長崎に向かう意味があるのだろうか。
 
考えあぐねた川路 聖謨かわじ としあきらは、とりあえず長崎出立を取りやめて、この地にとどまり、後続の筒井 政憲つつい まさのりらと合流し、どうすべきかを協議をすることにしたのでした。
 
1853年12月11日、プチャーチンらの長崎出航の情報を受けた徳川幕府から、川路 聖謨かわじ としあきらに連絡が入ります。

『長崎に参るべし』ー江戸に戻らずそのまま長崎に行け、それが幕府の指示でした。

やがて合流した筒井 政憲つつい まさのりらと協議を行いましたが、徳川幕府からの書状にあった、ロシアの艦隊が再度長崎に戻ってきた場合、全権団が江戸に戻ってしまっていたら、幕府が約束をたがえたことになる。ゆえに、当初の予定どおり長崎に向かう方がよい、という内容は、もっともなことであるとし、長崎に向かって出立することで意見が一致しました。

プチャーチンが長崎を出港した本当の理由はわからなかったものの、この判断は、結果として正解でした。
全権団は大坂から山陽道に入り、姫路・岡山・広島を経由して長崎に向かうのでした。


そして、川路 聖謨かわじ としあきらら全権団とは全く関係なく、彼らよりも、ずっと先行して長崎へと到着した、ひとりの若者がいました。
 
その若者の名は、吉田松陰よしだしょういん。通称、寅次郎とらじろうといいます。

吉田松陰よしだしょういんは、脱藩の罪により、長州藩藩士の身分をはく奪されたものの、藩主、毛利敬親もうりたかちかの温情で、「育(はぐくみ)」という身分となり、10年間好きな場所で好きに学問をせよ、という許可を与えられたのでした。

おそらく毛利敬親もうりたかちかは、時期を見て、再び吉田松陰よしだしょういんを藩士として召し抱えるつもりだったのでしょう。

吉田松陰よしだしょういんは、江戸に出て、日本で屈指の西洋兵学者、佐久間象山さくましょうざんの私塾『象山書院』に入塾し、後に『米百俵』のエピソードで知られる長岡藩士小林虎三郎こばやしとらさぶろうと並んで、『佐久間象山門下に二虎あり』と謳われていました。
 
尚、商家が実家で裕福なため、実費で江戸遊学に来ていた土佐藩藩士坂本龍馬さかもとりょうまも、ペリー来航に刺激を受けたのか、1853年(嘉永6年)12月の末に、佐久間象山さくましょうざんの私塾『象山書院』に入塾しています。
吉田松陰よしだしょういん坂本龍馬さかもとりょうまは、もしかすると『象山書院』ですれ違っていた可能性もあります。

それはともかく。
佐久間象山さくましょうざんは、『東洋道徳・西洋芸術』、東洋(=日本)からは社会制度・道徳の思想を、西洋からは科学・技術を学ぶべきと、塾生たちに説いていました。

吉田松陰よしだしょういんは、赤穂浪士で有名な山鹿流やまがりゅう兵学者としての顔を持っており、攘夷を行うためには敵である西洋列強の兵力をこの目で実際に見て知る必要があると思い込むに至ります。
まずは敵の実力を知る、ということでしょうか。

実際にその目で見たいのあれば、黒船に乗り込んで渡航すればよい。

とそう言って、佐久間象山さくましょうざん吉田松陰よしだしょういんの背中を押します。
 
土佐の漁師、中浜万次郎は漂流民としてアメリカの船に助けられ、アメリカで学問を受け、日本に帰国後、士分に取り立てられ、今では幕臣である。
ならば漂流民として渡航すれば、密航の罪に問われることもないはすだ、と。

プチャーチンが艦隊を引き連れて長崎に来航したという情報を得た吉田松陰よしだしょういんは、長崎へと向かいます。
密航のことを知っていたのは、佐久間象山さくましょうざん吉田松陰よしだしょういんの門下生である長州藩の桂小五郎など、ごく少数の者だけでした。

そして吉田松陰よしだしょういんが長崎へと到着したのは、1853年11月27日
プチャーチンが上海に赴くために長崎を出港してから4日目のことです。
長崎の港にロシアの艦船の姿はありませんでした。

もう数日早ければ、と落胆した吉田松陰よしだしょういんは、1853年12月1日に長崎をあとにするのでした。


そんな吉田松陰よしだしょういんなる若者の存在を、全く知ることも無く、全権団は長崎へと歩みを進めます。

そして1854年1月12日。プチャーチンたちと川路 聖謨かわじ としあきらら全権団は最初の会談(顔合わせ)を行います。
 
当初、プチャーチンは、ロシア側が一度日本に上陸して国書をわたしているのであるから、今度は全権団全員がロシアの艦船に搭乗して返事をすべきだと主張しましたが、長崎奉行所側は「道中長旅で疲労しているので、お越し願いたい」と返答し、結局プチャーチン側が譲歩し、そうなりました。

しかし、長崎奉行所側が出した条件のうち、『日本側が希望した場合のみ、礼砲を発射すること』をプチャーチンは無視することにしました。
  
たとえ日本側が希望しなくても、礼砲を発射する。
プチャーチンにとってこれは、さんざん待たされた、せめてもの憂さ晴らしだったのでしょうか。


■参考資料







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