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歴史フィクション・幕末Peacemaker 【05】~高杉晋作、船を買えず~(2397文字)

※ご注意※
これは薩英戦争・下関戦争前後の時代を舞台にした小説であり、『殆どフィクション』です。あらかじめご注意ください。


高杉がやらかしよったー。
という噂が、長州藩の藩士、聞多の耳に入って来たのは、1862年8月の半ばぐらいのことだった。
「はぁ?高杉のやつ、いったい何を考えちょる!(ꐦ°᷄д°᷅)」
聞多は呆れて思わず叫んだ。
 
高杉とは高杉晋作たかすぎ しんさくのことである。
そして聞多とは、明治時代に外務卿、大蔵大臣、内務大臣など主要閣僚を歴任する後の井上 馨である
 
この時は志道家に養子に入ったため、志道聞多しじ ぶんたを名乗っていた。しかし後に井上聞多いのうえ ぶんたに戻るため、ここでは井上聞多いのうえ ぶんたとする。
 
尚、公式史料では聞多ぶんたとなっているので、聞多もんたと呼ぶのは誤りになると思われる。
が、「もんた」のよび名が一般に広まっているのも事実である。(もしかすると、仲間からはあだ名的に「もんた」と呼ばれていたのかもしれない)
 
井上聞多いのうえ ぶんたは、1836年1月16日生まれで、文久2年(1862年)のこのとき26歳。
1839年9月27日生まれの高杉晋作たかすぎ しんさくは23歳である。

「これだから、松下村塾のやつらは何をするかわかったもんじゃないわい!(ꐦ°᷄д°᷅)」

井上聞多いのうえ ぶんた高杉晋作たかすぎ しんさくや伊藤博文などと一緒に行動することが多いため、松下村塾出身と思われそうだが、実際はそうでない。

ところで、高杉晋作たかすぎ しんさくが何をやらかしたかと言うとー。
2か月にわたる上海視察から長崎に帰国したのが、1862年8月9日のことである。そしてその翌日の8月10日、オランダが長崎で売りに出していた蒸気船を二万両で購入するという契約を、誰にも相談することなく勝手に結んでしまったのである。

高杉がなぜそんなことをしたのか、井上聞多いのうえ ぶんたにはわからない。あいつは何をしでかすかわからないやつだで片づけ、その独断に対して怒るのみである。
物事には踏むべき手順と言うものがあるだろうに、あいつはそれがちっともわかっとらん、と。

理由はある。上海で出会った五代才助(友厚)の影響であった。

意気投合した五代と高杉は上海在住の期間中にしばしば談合をした。
「以前に長崎の商人グラバーと上海で蒸気船を一隻買った。この船で薩摩は上海から世界中を相手に交易をおこなう」
「密貿易かー」
「幕府が認めない今は仕方ない。高杉さん、わたしが考えているのは上海経由の交易だけじゃない、海を渡ってイギリスはもとよりアメリカ、ヨーロッパの各国へ直接赴くつもりだ。武力だけでなく、経済力をもって西洋列強に日本の力を見せつけ、対等に渡り合う」
蒸気船を通して世界を俯瞰する五代の構想は、晋作に刺激と焦りを与えた。

薩摩は着々と力をつけている。翻って我が長州はー。蒸気船1隻すら保有していない。帆船の軍艦を2隻保有するのみにすぎない。
このままでは時勢に乗り遅れてしまう。
 
ーだから、晋作は蒸気船を独断で購入しようとしたのであった。
もちろん、晋作はそれを説明しようとしない。
ゆえに非難を一身に受けることになる。

「契約したのだから仕方ない。殿がお持ちのお道具を売るなどすれば、なんとか2万両、工面できるのではないかな」

改革派に属する長州藩の官僚、周布政之助が助け舟を出すが、擁護の声はごく一部でしかない。

「周布さん!あなたがそうやって甘やかすから!(ꐦ°᷄д°᷅)」

「聞多、耳元で叫ぶな。しかし蒸気船は必要であろう」

「蒸気船だったらなんでもいいというものではありますまい!船の装備と値をしっかりと見極めて買うべきです!できれば世界一の海軍国、イギリス製の蒸気船がよろしかろうと!(ꐦ°᷄д°᷅)」

「叫ばずとも聞こえておる。それも一理。ならば聞多、お前が蒸気船を買ってこい」

「え、なんですって!(ꐦ°᷄д°᷅)」

「なぜ怒り顔で聞く?高杉が買った船を藩が正式に購入したら批判がおさまらん。だから聞多、お前が藩命を受け、正式に蒸気船を購入する、それで丸く収まるであろう。お殿様にはわしから上申するゆえ、いまよりとりかかれ」

「そういうことならば、承知つかまつってござりまする!(ꐦ°᷄д°᷅)」

「だからなんで怒り顔?」

1862年8月20日に井上聞多いのうえ ぶんたは長州藩世子(せいし=あとつぎの意味)の毛利定広の小姓役として江戸在勤を命じられる。
蒸気船購入に着手しはじめたのはこれ以降と思われる。

結局、高杉晋作たかすぎ しんさくが購入しようとしたオランダの蒸気船は、オランダ側が手を引く形で契約破棄となる。

「裃(かみしも)をつけた役人どもに、何ができるか」

と不満を口にしながらも、高杉晋作たかすぎ しんさくは藩命により江戸へと向かった。
 
途中、晋作は京に寄り、そこで上海視察の報告を京にいた藩主の毛利敬親もうり たかちかに報告したり、桂小五郎に手紙をだしたりしている。

一方、井上聞多いのうえ ぶんたは、同じく購入の交渉役に命じられた長嶺内蔵太とともに、文久2年8月ごろ((1862年8月または9月)より横浜のジャーディン・マティソン商会のケズウィック支店長と接触し、鉄製の蒸気船「ランスフィールド号」を、英国領事ガワーとの交渉で12万ドルで購入する話をまとめあげた。

「ランスフィールド号」は文久2年の干支が壬戌であることから「壬戌丸(じんじゅつまる」と命名され、毛利定広を乗せて長州藩へと戻る。

尚、この交渉にアーネスト・サトウは関係していないと思われる。

【続く】


■参考文献

『高杉晋作 情熱と挑戦の生涯』
 一坂太郎(著)

『井上馨《開明的ナショナリズム》』
堀 雅昭 (著)


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