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紫式部の生涯 01 三田誠広さんの紫式部

いよいよNHKの大河ドラマ「光る君へ」が始まりました。源氏物語を書いた紫式部の生涯の物語です。これまで、名前は有名だけど、そのひととなりについては、ほとんど知られていませんでした。
20年ほど前の西暦2000年前後に、源氏物語が誕生して1000年ということで、源氏物語ブームがおこりましたが、今度は、紫式部その人が注目の的です。

しかし、紫式部に関しては、名前や生年などの基礎情報すら史実として残っていません。大学やアカデミズムの先生方に、紫式部について尋ねても、彼らは、何も答えられません。史実にないことは、しゃべれないのです。

「光る君へ」の脚本は、作家の大石静さんが書き下ろしました。特に、紫式部の幼少期については大胆な作り話が展開されます。
ドラマでは、まひろ(紫式部)と三郎(藤原道長)は、幼少期に街中で出会うことになっていますが、これは、勿論、フィクションです。

紫式部の幼少期の推測について、私が、もっとも信頼しているのは、三田誠広さんの推測です。彼は、紫式部の育った屋敷と、時の左大臣 源雅信(まさざね)の住む土御門殿(つちみかどどの)が、とても近いことに注目しました。

紫式部が育った場所として京都の名所になっている廬山寺は、もとは、紫式部の曽祖父である藤原兼輔が建てた屋敷でしたが、現在の京都御所の東側に隣接しています。紫式部の時代、天皇の住む内裏は、今の京都御所より西方にありましたが、いろいろと災害に襲われ、藤原道長の住んだ土御門殿の場所に移転したのです。

土御門殿の左大臣源雅信の正室、藤原穆子(あつこ)は、紫式部の父の従姉弟という親戚関係でした。土御門殿には、女房が大勢いて、宮中のような生活がありましたので、紫式部も、小さい頃から出入りしていて、あるとき女房として出仕したのではないかというのが、三田誠広さんの仮説です。

現在の通説では、紫式部が源氏物語を書き始めたのは、夫の藤原宣孝と死別した後、すでに30歳以上になっていたころだとされていますが、瀬戸内寂聴さんも言っているように、紫式部のように文才のある人は、もっと前から、執筆を始めていたはずなのです。

源氏の土御門邸の女房たちに、若紫のような物語を作って話しているうちに人気になり、紙を与えられて、物語を書きとどめることができたのではないでしょうか。

そんな生活の中、道長が、入り婿としてやってきたのです。道長は、22歳、紫式部は、18歳くらいの頃です。道長は、ここで、三男坊としてのゆるい生活を送っていたのですが、30歳になったときに、二人の兄が続いてなくなり、藤原家の当主としての役割が始まります。

源氏物語の光源氏は、源氏の御曹司としての道長の存在がモデルであるという説も、こういう事情があるからです。

大河ドラマが始まりましたので、これから1年をかけて、紫式部の生涯が、すこしずつ明確になり、人々の間で語られるようになると期待しています。

このサイトでも、すこしずつ、この三田仮説を裏付ける話を取り上げていきたいと考えています。

続く


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