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メタ論理の追跡者(星野智幸『焰』/第54回谷崎潤一郎賞)

「私的文芸年鑑」という企画の目的の一つにはこの大切さに目を向け、「恢復」を経て書いて生きる習慣をImproveすることがある。続けるために気楽な制作活動を積み重ねることの大切さはもちろんある。とくに心身問わず怪我をしてしまったとき。

しかし本作『焔』。眼の前には構築美がある。目の前に「カッコいいこと」が書いてある。この積み重ねが構築美をなし、メタな論理の手ざわりを掴み始めているとき、それを取り零すことが真摯なことだとは思わない。本作において〈私的〉な語りが可能であるとすれば、本作に内在するメタな論理、あるいは執筆、改稿、短編集にまとめる際の間章の挿入に際して星野智幸が掴みつつあったものを見出し、そこに注釈を加えるという方法を取ることになるだろう。まず本作における「魔術的」ともとられかねない現象が如何にして可能になったか、各作品ごとに端的な記載を試みる

ピンク:人と人が手を繋いで輪を作って回転する。回転による平衡感覚の喪失と個人としての意識のゆらぎが加速し、時間も加速する。列島の人々が次々と息絶えた頃「十九年前もこうして暑さをしのぐために回った」ことを思い出し、「十九年分すっかり巻き戻ったらこの世を自分たちの手に取り戻そう」と誓ったうえで祈りの逆回転を始める。小説を執筆している際に経験した「猛暑」を小説において個を取り戻す際のギミックとしている。

ふいに草の香りがたった:語り手の女が闇に消える。何事もなかったかのように次の語りが始まる。

木星:ネトウヨと日本海会戦による大規模な戦士を媒介にして対話において語られる内容の不確かさが表出する。〈信頼できない語り手〉をテーマとした作品の会話劇バリアントとしても読むことができる。

空を見上げるが、星は一つも光っていない:焔の周りという「語り」の場にいることが、生き残っていることとして捉えられる。

眼魚:「眼」を観測できるようになる。「眼」がコミュニケーションを取っていることを察する。視覚的な言語情報を処理できなくなるかわりに、生命体同士の「眼」を介したコミュニケーションが可能になる。身体が曖昧になった「眼」になる。人類のすべてが眼のかたちをした海の生き物として個を曖昧にしたまま地球を埋め尽くす。人間がいなくなる。

花はもう萎れて散ったのか、鈴の音は聞こえてこない:カラスを媒介に次の語り手へ。

クエルボ:カラスの視点に立つ。私はカラスを見上げ、カラスは私を見ているという確信を持つ。カラスの卵を産む。亜矢子に声をかけたとき「まったくうるさいカラス」とつぶやかれたこと、視力がカラスの強度になったことで自分がカラスになったことを察する。

カラスは飛び立っていき、もはや戻ってこない:カラスが焔に飛び込むイメージ。魚のように土中を泳ぎ回る。薪の音が〈私〉に雨の音に聞こえてしまったせいで焔は水となり、あたり一面泥になる。カラスはペンギンに、私は海獣に。人間がいなくなっているかもしれない。変身の代償に言葉を失うことを察し、変身についての「語り」の傾聴へ戻っていく。

地球になりたかった男:洪水による浸水を契機に、森瀬は半地下室に籠もる。半地下室に昆虫や草木が侵入し、家に土壌が侵食し、家と土の境界が曖昧になる。このことから地球と人間が相反するものではないと悟る。〈自然〉と一体化するうちに〈全人類〉を愛するようになる。飢餓感=人間らしさを原動力に貪食するうち、土の中の栄養物を貪り尽くし、土と一体化し、土さえも呑み込み、地球になる。森瀬の体液であるはずの水を地球規模の観測者として眺めて、「あそこで泳いでみよう」と思う。

地面の土をつまみとり、親指と人差指の腹でこすってみる:土は微生物の排泄物。その上に生き物が生きている。焔の音はもう水には聞こえない。土が乾き、砂は焼け、人間は観念が肉をまとっているだけのものだと確信する。

人間バンク:一円=一人円の世界。十万人円を貸し付けられ、それを元手に商売する。資産が百万人円以上貯まると百万人円=人貨(人円の借金を返済している人)一人と自動で交換される。人貨と生活をともにするうち、事業によって貨幣を増やすよりも、人貨として貨幣にとらわれない暮らしをする方が人間らしく思えてくる。人貨の不足は誰かを連れてきて十万人円を貸し付けることで補える。自分自身もその一人であったことに気がつくが、それでも人貨になることを決める。

決勝まで進んだ選手みたいな心持ちがする:語り手は二人。最後の一人になるかもしれないことについて「とうの昔に人間は人間でなくなっていた」と考えることで心を軽くする。「人間的」であろうとすることは人間から離れること。「人間ではなくなること」は他の生き物に変身することでもない。いずれ自分も消える。

何が俺をそうさせたか:父親を持て余し、施設に預ける。預けられて人を家畜の餌にするファームに。そのことに気がつく頃には罪の意識が臨界に達し、ファームで働くことが人間/動物としての〈俺〉の務めだと理解し、生を実感する。

波音が聞こえるが、おそらく耳鳴りだろう:焔を一人で見つめる。自分を語る言葉を見出したことに気が付き、語り始める。

乗り換え:星野が別の世界でありえたはずの星野と出会う。別の可能世界における星野を思い浮かべて全能感に浸りそうになるも、「この星野」として自分が生きていることを受け入れ、「この星野」にしかありえない生活に日常の手ざわりを残しながら戻っていく。

自分も焔の一部として燃えている気がした:フェニックスが焔のなかから飛び立つように自分自身も消える。しかしまだ薪の燃える草原にいる。物語を語り終え、〈私〉でありながら〈私〉以外の他のなにかになる。〈自分〉という固有言語の中でこそ、他の存在への想像力が動き出す=他のものでありえることができると悟る。〈想像力〉をも身体器官とし、次の物語の語り手とともに〈私〉も語る。

世界大角力共和国杯:闘う/闘わないという土俵に上るかどうかについて、本物の角力を媒介に語る。衆目の面前で闘うということは、凡人の想像力の範囲を逸脱しつつ、自らを表現するという闘いでもあることを引き受け、土俵に立つことを決める。

大歓声が巻き起こった:薪の焔を囲う存在すべてが一つの物語を語り終える。焔が上昇していく。地表の新しい草原では、一人の人間ではとても抱えきれない物語が分かち合われ、それぞれの輪の真ん中で焔が燃える。私たちが、自分の物語を語り続ける限り、出会う人ごとのいくつもの物語に入り、自分も語り手の一員となって、自分の人生と同じ長さ重さをかけて、生き続けるだろう、と確信する。

本書の構成は短編集としての「焔」の題字及び目次の後、

間章:灰字に黒字。一行あたり二五字で一ページあたり一八行を中央に配置。両端に余白が大きくとられている。

題字:黒地に白字で横山雄によるもの。

本章:白地に黒字。一行あたり四一字で一ページあたり一八行を中央に配置。単行本小説に一般的なレイアウトが九回反復され、最後に終章が挿入されるものである。

各短編は異なる文芸誌に独立した短編として寄稿された後、単行本にまとめる過程で間章が挿入されたことが予想される。装幀については「新潮社装幀室」によるものとあり、プロジェクト単位で上位のレイアウトが決定づけられたのかもしれない。

『ピンク』では運動による個の喪失と、集合的無意識への接続が描かれる。しかしこの作品の語り手は集合的無意識に対して懐疑的で、集合的な運動は滅びに繋がっていることを見つけ、集合的な運動の時間を個の力で「逆回転」させる。『木星』では対話によるコミュニケーションの危うさが描かれる。この人間の個を維持した言語的なやり取りに対する懐疑は『眼』においてすべての個が一つの生命体になることによって超克されようとする。全員がこの変身を遂げられなかった場合の人間とそれ以外のミスコミュニケーションを描くのが『クエルボ』である。続く間章の『カラスは飛び立っていき、もはや戻ってこない』で変身による失語への慎重さをもちはじめる。『地球になりたかった男』では人間から他の生命体へ、というアプローチがより過剰になり、人間から地球(自然)への変身を試すことになる。人間が他の生命体になろうが、自然と一体になろうが、観念を伴う限り人間の言語意識が維持されることがわかり、間章の『地面の土をつまみとり、親指と人差指の腹でこすってみる』で人間は観念が肉をまとっているだけのものだと振り返る。『人間バンク』では人間的であろうとするあまり肉体を維持しながら観念となった男について検討される。『何が俺をそうさせたか』をふまえると、人間的であるとは、ある種の諦念とともに状況を受け入れることなのかもしれない。『乗り換え』ではあらゆる〈私〉について検討のうえ「この」〈私〉を受け入れる手ざわりが描かれる。〈私〉という状態が想像力の源であり、他の世界も「この」〈私〉によって可能になる。『世界大角力共和国杯』で語られるのは〈私〉を語りの土俵に乗せるための跳躍なのかもしれない。『大歓声が巻き起こった』では帰結が語られる。他者の器に入ること、あるいは自分の物語に他者を巻き込むことは、〈私〉の語りによって〈私〉の器を確固たるものにすることによって可能になると。この「器」という空間的モチーフを時間に読み替えれば、「出会う人ごとのいくつもの物語に入り、自分も語り手の一員となって、自分の人生と同じ長さ重さをかけて、生き続ける」ことができると納得される。

マジックレアリスム的なメタモルフォーゼをあらゆるものに行い、人間というものを否定神学的に検討していった結果、帰結として訪れたのは人生において出会う人々や生命体、環境、概念との「語り」を媒介にした共存だった。一見するといかにも単純なヒューマニズムへの再帰に見えるが、この小説で行われたのはより根本的な「人間の定義」の再検討である。「ネトウヨ」について『焔』の作品群でふれられたとおり、SNSの形成する情報空間は人間の生きる目的を事後的に捻じ曲げ、人間本来の生や語りを一度見失わせてしまう。この状況下において『焔』が行ったのは情報空間を鏡にした人間の再検討である。単純なヒューマニズムへの再帰に見える帰結も、人生において出会う人々や生命体、環境、概念、情報空間をも取り込んだ新たなサイボーグ的な身体の開発であるとすればポスト・ヒューマンやトランス・ヒューマンの「いいとこ取り」をした人間らしい人間のあり方の表明として理解される。

〈私〉の語りを強固にすることが他者を受け入れる器になるという帰結も、手ざわりについて語ることによって、他者の語りに耳を傾けた際、あるいは書いたものを読んだ際にその人の感じた手ざわりについて肉体を超越して近くできるということとして納得される。情報空間に発信される投稿には、その人ごとの温度や距離がせめぎあっている。この共鳴を愉しむことも、〈私〉の語りをそれぞれが行い、また、語りによって高められた解像度のもと耳を傾けることで可能になるのではないか。それはきっと、技術によって人間がより人間らしく人生を謳歌するということだ。

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