大和の砲塔のクミタテ方(その2)

前回は勢いあまってイラストだけ出してしまっていて、どうしてそういう妄想となったかのソースを示していなかった.今回は写真から読み取った結果について書いてみたい.
参考にするのは、あの有名な昭和16年9月20日の、呉で艤装中の大和の写真である.

下記の写真は第三砲塔の袖筒周囲に拡大である.第一砲塔から順番に組み立てていったらしく(戦艦武蔵ではきちんと記録されている)、第三砲塔はまだ組み立て中だ.袖筒も同様で、上面には滑車とウインチが用意されており甲板上のハッチを経由して下部にオイルとか機材を下ろすのに使われているように見える.もしかしたら、測距儀搬入にも使われたかもしれない.
 袖の端は開口されたままであり、今後ここか測距儀が入れられるのではないかと思う.下記のイラストに直接書き込んだように、正面は一枚板、ボルト締めされて構築されていることがわかる.

2枚目のイラストも9月20日のsyっしんのかくだいで、第一砲塔第二砲塔の袖筒の背面を見ることができる.
背面は大きく丸みを帯びている形状が良くわかる.ボルト結合部はいちれつしかみえず、ここから袖筒は単なる四面の箱形状ではないことが判明する.また袖端面の板は上面と結合ののちパテ埋めされており、外すことはほとんどないことを前提としていることもわかる.測距儀の寸法は知らないので確実なことは言えないが、入れてから閉めると考える方が、取り付けと調整を考えると好ましいだろう.楕円のハッチは右舷左舷両方に用意されているのと開閉が楽なようにパテ埋めされてないことからして、メンテナンス用とみるのがいいのではないかと思う.

こういう写真をにらめっこして、自分では妥当そうらしい(それを世間では妄想と言う)袖筒にの組み立ては以下のようになると考える.

砲弾なんかが直撃しても、袖がくにゃっといかないように上面板を湾曲させているんじゃないかと思うのだけど自分としては斜め上の形態をしていて、やっぱり同時期の米英の戦艦のそれとは違うなあと感慨深い.

次回以降は本丸の砲塔組立自体を見ていけるようにしたい.

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