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[補筆] 秋水/エンジンの裏側に見えたもの(2)

エンジンの背後にはなにかがある

いまから10年以上前のことだけれど、ロシアのロケットエンジンについて薄い本を書いたことがある.1990年代後半から公開された学会論文などを中心にできるだけ精度の高いロシア発の二次情報を漁り、どのような過程でどんなロケットエンジンを構築していったか、なぜそうしたのかを記述をつき合わせ補完して再構築してみたものだ(とかっこよく言うほどのものではないのだけれど).ロシアのエンジンはとにかく(ふんふん!!)すごいのだけれど、なぜ技術者たちはこんなエンジンを作り出したのか、格下のアメリカや日本と何が違うのか、知りたかったからだった.その過程で、丁寧に記録と文とロジックを追っていくことで、おぼろげながら形が見えてくるという経験をした.ロシアのすごいエンジンの背後から、V-2から技術は連綿とつながっていき高みに到達したことがわかったのだった.
part1に記したように、松岡さんの”秋水”本[1]とエンジンにはまだ見えてきてないなにかがある気がしている.まだその"なにか"はわからないけれど、ロシアのエンジンと同様に丹念に漁り、つなぎ合わせていくと見えてくるものがあるだろう.part2ではpart1執筆後に見つけた情報を中心に、さらに秋水のエンジンと背後をみていくことにする.

燃料をどうやって燃やしたか?

松岡さんの本[1]でも平岡さんの論文[2]でもだが、実は燃焼器の、特に噴射器の詳細がほとんど記述されていないのに気がつく.松岡さんも原動機系出身であるはずだが、噴射器の説明が本文中これっきしもないしこの本のpp.176[1]では誤解を招く記載さえある.実はわたしも理解するまでに時間がかかっている(その上、先のトラップに引っかかって誤解してた).
推進薬を噴射するインジェクタを簡単に図解すると下記の図のようになる.

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Sutton先生が著作[3]pp.758で書いてあるように、これはbipropellant pintle-type spray heads each at the flat injector faceである.つまり、ピントルのピントルたる心棒が引っ込んでしまったタイプだったりする.ちなみにSutton先生は同書の日本の項目において秋水のエンジンに対し、

This 109-509 engine was skillfully copied (from incomplete drawings and fabrication documents)

と書いていて褒めてくれている.
(pp.817[3]には、日本がコピーしたエンジンには”multiple sets of coaxial (同軸) injection elements”があると書いてあって…これも誤解するきっかけになったとちょっとだけ言い訳しておく)

 図からわかるように、燃料(C液)は周囲から円筒状に飛び出してくる.一方の酸化剤(T液、過酸化水素)は中央から出てくるのだけれど、中央に自動車エンジンのバルブ(弁)みたいなのが鎮座していてこれにぶつかって円周方向に向かって傘の面のように広がるようになっている.これらシート状の推進薬が微粒化しながら衝突、混ざって燃えるようになっている.この弁体、T液が送られてくるとにゅっと押し出されて突き出るようになっていて、逆に推進薬が来なくなると(=つまり圧力が下がると)内部にあるバネの力で弁が閉まるという仕組み.エンジンは今の名誘のディーゼルエンジン担当部署の方がやったとある(資料[1]では...後述)ので、こういう仕組みはきっとお手のものであったことだろう.しかしこの噴射器形態、燃焼温度が低いからやれる芸当であって自動車用のエンジンよりも厳しい環境となるロケットではなかなか使えない方式であるし、また非常に完成されたシステムとも言えるのでここの情報がなければ特呂2号エンジンはスロットルなしのエンジンになっていたかもしれない.またこの形、IST(インターステラテクノロジズ)のMOMOと同様で基本旋盤で製作できるから、バネとか精度管理は大変だろうけど形を作る点は大きな支障はなかったんではないか(バネはディーゼルエンジン用のを転用できるし)とつくづく図をみて考える…この点についてはまたどんでん返しがあった.

なぜ知ってるの、この形?

名古屋発動機製作所が秋水のエンジンを引き受けているが、前回述べたようにディーゼルエンジンをやっていた方々が担当だったのでロケットなんかちんぷんかんぷんだったらしい.なのに、その人たちはなんと8/1に検討開始で8/20に出図していたりする.は?  どうやったら知らないシステムの図面を、それも製造図を作れるのか、それも20日で?  ディーゼルエンジンとは燃料の噴射という点では同じだとはいえ、ぶつけるという発想はないから20ページ分の薬液噴射弁資料があるからといって図面をすぐに引けるはずはない.だから

  インジェクタの設計はどこが、誰がおこなったのか
  どうして短期に設計、出図できたのか

と問わざるを得ない...解は平岡さんの回想録[4]にあった.

 日本ロケット協会というなんか怪しげ(笑)な団体が世の中にはある…が最近とみに有名になった日本学術会議にも参加してるそこそこ歴史のある団体であったりするので舐めてはいけない.この協会の会報誌がRocketNewsというやつで、先人たちのインタビューやら随想が載っていることが多い…まあ若い人向けの冊子でないことは確かかもしれない.1975年に、長兵の平岡さんが回想録を書いていたそうで、そのコピーをfioさんから分けていただいた.
で一読してちょっとびっくりである.この平岡さん、特呂1号つまりイ号一型甲という誘導弾道弾のエンジンに携わっていた人である.この記事に特呂1号の噴射器の図面があるのだがこれが変形同軸スワール型.下図にそれを転載してみた.

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中央からは過マンガン酸ナトリウム液、側面からは過酸化水素が吹き出すようになっている.それぞれ傘のように広がっていく形になっていて、両者は積極的にぶつからない.このままだとうまく燃えないので噴射器の対面の反応促進板(文章中では邪魔板) を設けて、ここに衝突させることで混合燃焼させていた.この板がなければ両者の混合はとてもでないがうまくいかず燃えない.燃えてもこれらに熱を取られてしまうし、燃焼温度を上げすぎてしまうと溶けてしまうわけで、苦労してもどうにも性能は出なかったの当然のことだろう.しかしなるほど、これを試して苦労していたのであればドイツからの薬液噴射弁の資料をみて直ちにその薬液弁のメリットを理解し、設計し実験にこぎつけられたはずである.なぜなら後述するようにHWK109-509の噴射器は、簡単に言えば特呂一号の噴射器中央に、バルブを付けた(だけの)代物だからだ.反応促進板のかわりに、噴射器側に積極的にぶつける工夫をしてやればいいんだと一目で気がついたに違いない.また、イ号エンジンの開発を通して、燃焼器の設計製造も経験済みである.だから8月末に資料をもらって10月末に燃焼試験、というスケジュールが可能になったのは当然であろう.試験はたんに燃焼器だけの機材だけでは済まない.試験用の機材もあったしスキルを持った作業者もいたので試験がスムーズに済んだということだ..ということでひとつ、理解に及んだ:

燃焼器や噴射器はこれまでの知見に基づき長崎が設計、製造した

松岡さんの本[1]の本文記述からは、長崎の作業は並行して試しただけのことで名古屋(横須賀)がエンジン全てを作ったかの印象が得られる.組織が違うから立場が違えば見方は変わってくるであろうが、経験と知見がなければ図面をみたって理解はできないし、まして作ることは無理だ.ロケットを少し嗜んだわたしのゴーストは、平岡さんの記述は燃焼器+噴射器開発の実態を表していると告げている.

ドイツから提供されたものは

しかしまだ疑問は残る.燃焼器は経験があったからやれた..とはいえ試験にこぎつけるには9月に出図として全力テストができるまでに4ヶ月かかっている(1/3分力とかの試験が10月にできていて、なぜ3/3の全力テストが1月かというと設備の準備に時間がかかったらしい).では、もっと複雑な流体系の機器は? なにせ日本に届けられたのは20ページそこそこ.流体機器とか系統図はB5版で4ページ程度だったという.ポンプについては記載がほとんどなくて大変だったとは資料[1]にはあるが他はどうだったのか.大変ではなかったのか? 特に燃焼器を冷却したあとで戻ってきた過酸化水素を分配する調量装置は、推進薬の調圧と開け閉めもできる極めて重要な能力を持つ.これは一体どう設計したのであろうか.
本家本元はどうしていたかまずみてやるかと思い、Me163の機器の調査をしてみた.ざっと検索したら戦後1950年代にアメリカがドイツのロケット技術について調査したリポート[5][6]がでてきたのでこれらをチェックしてみた.そのひとつがこちら.Regulator assemblyとあるHWK109-509[5]のものなのだが…

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資料[1]の調量装置とある図14-4と相似である.ごめんなさい、相似とここでいうのは似てるという意味ではなく、数学上幾何学的な意味での相似を言う.均衡弁の複雑な形状もまったく瓜二つである.ドレンの形状など違うところもあるが位置は同じ.組み立て用のボルトの位置も個数も同じ.内部流路などはまったく同じものと言っていい.あんまりじゃないか、これは?  この資料の元図はレターサイズを少し下回るものとみられる.この機器一つの概略図一枚でB5版より一回り大きいわけだから、詳細形状を読み取るためにはそしてC液側の同様の機材を考えれば4ページではとてもすむはずがない.ドイツからの資料にたとえ入っていたとしても、繰り返すけれど、

”B5版位の約20ページの小冊子に…前半の4ページほどにこのエンジンの系統図とともに、燃焼装置、燃焼装置などの構造を示す小さな説明図が掲載されていた(資料[1]、pp.86)”

とあれば構造が読み取れるようなものではないだろう.この小さい図とはどの程度だったか? 同じく資料[1]のpp.88には

”(薬液ポンプは)30mmx100mm程度の縮小図しか掲載されておらず…羽根車の部分は空白”

とある.これに相当する系統図[5]は以下のものであろう.

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図中25番が調液装置、13〜15番がポンプとタービンである...が、これでどうやったらこの複雑な燃料と酸化剤の圧力のバランスをとる機械を設計できるのか、世界初のインデューサ付きのロケット用ポンプと瓜二つのものを設計できるのか? もちろん資料[1]の図14-3にポンプの断面図があり、よく見るとインデューサはなく前翼として数枚の羽が埋められているのだけれど.可能性は0じゃなかろうが、なにかしらもっと資料がなければ無理、と考えるのが自然というものだろう.

一方、噴射器[6]を比べてみよう.

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平岡さんの資料[3]のインジェクタは構造がだいぶ簡略化されていることがわかる.そして、特呂1号のインジェクタの形態とよく似ていることもお分かりだろう.多分これは44年の10月から1月に使われた急造噴射器ではなかったか.資料[1]のpp.176図14-7に秋水のものとする噴射器図があるがこれとも大きく異なる.またこの形態、HWK109-509のものとも異なっていて、日本のパッキンなどのシール材に合わせて工夫された様子が伺える.またここで示さないが、燃焼器も形が違う.秋水のはまん丸だがMe163のは平行部がわずかだが存在する凝った形をしていたりする.このように燃焼器/噴射器については多分経験に基づき改定した独自性が見えるのだが、ポンプや調量装置は”資料がないけど頑張って作った"というにはあまりにも形状が似すぎている.そりゃサルだってキーボードを叩いていけばシェイクスピアの戯曲を書く可能性は0ではないさ.しかし似るというにもほどがある.これを埋めるには...以下のどれかで情報を得るほかないのではないかと考える.

a) 現物が実は日本に届いていた
b) 詳細な図面(製作図でなくていい)が実は日本に届いていた
c) 実はファックスなどで後から届けられた
d) ほぼ同じものが日本にあった

さて実際はどうだったのだろうか.本当に20pの資料だけだったんですか? ご冗談でしょう.冗談ですよね? 技術的なconsistencyないです.技術には、製造物には、どこかしらつながりがあって、ペラな紙から突如生み出せるようなものじゃないと思うのですけど.

もちろんだけど松岡さんの本は全くこの件については語っていない...(結局終わらなかったのでつづくorz

[訂正] SpaceNewsは海外メディアでして...RocketNewsが正しいです.

参考文献
[1] 松岡久光、液体ロケットエンジン機の誕生 日本初のロケット戦闘機秋水、三樹書房、2004.
[2] 平岡坦、”液体ロケットの研究について”、日本航空学会誌(現日本航空宇宙学会誌)、第6巻第54号、pp.9-14、1958(昭和33年).
[3] Sutton, P., “History of liquid propellant rocket engines,” AIAA, 2006.
[4]平岡坦、”落穂ひろい”、日本ロケット協会、No.117〜127、1975(昭和50年).
[5] American Power Jet Company, "Analysis and evaluation of German attainments and research in the liquid rocket engine field," Volume VII, Thrust control, Central Air Document Office (Defense Technical Information Center), Feb. 1952.
[6] American Power Jet Company, "Analysis and evaluation of German attainments and research in the liquid rocket engine field," Volume IV, Propellant Injectors, Central Air Document Office (Defense Technical Information Center), Feb. 1952.


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