物語が可能にすること(映画のネタバレ有)

(2023.6.9)

 『湯を沸かすほどの熱い愛』を久しぶりに見返した。かなり泣いた。だがラストで涙が引っ込んだ。「こんな話だっけ?」

以下、簡単なあらすじである。

銭湯「幸の湯」を営む幸野家。しかし父・一浩(オダギリジョー)が一年前に何も告げずに家出し、銭湯は休業状態。母・双葉(宮沢りえ)は持ち前の明るさと強さで、パートをしながら、娘・安澄(杉咲花)を育てていた。そんなある日、突然、「余命わずか」という宣告を受ける。その日から彼女は、「絶対にやっておくべきこと」を決め、実行していく。

□家出した夫を連れ去り家業の銭湯を再開させる
□気が優しすぎる娘を独り立ちさせる
□娘をある人に会わせる

その母の行動は、家族からすべての秘密を取り払うことになり、彼らはぶつかり合いながらもより強い絆で結びついていく・・・。

「湯を沸かすほどの熱い愛」公式HPより


 結局双葉は亡くなり、銭湯で彼女の葬式を執り行う。そして、家族みんなで銭湯に浸かっているシーンとなる。亜澄と、一浩の連れ子である鮎子は、「あったかいね」と言い合う。その後、カメラは葬式の際に双葉の周りに散りばめられていた花びらをたどり、銭湯の窯にフォーカスされる。燃え上がった火をバックに、タイトルコール。
銭湯に浸かっていたそれぞれが空を見上げる。銭湯の煙突からは赤の煙が上がる。



 やっぱり映画なので、現実と虚構のギリギリの線が成立した時に大きな感動が生まれると思っていて、そこを攻めないと面白いものは生まれない。「嘘みたいだけど、こんなこともあるかもしれないな」と思ってもらえたら勝ちという。それの最たるものがラストシーンですね。あそこは実は、一線を飛び越えちゃってもいいと思って作りました。僕が映画学校時代に初めて撮った卒業制作でも全く同じことをやってるんですよ。その時はただのビックリで終わってるんだけど、今の僕ならば表現として成立させられるのではないかと思って挑戦してみたんです。

シネマ旬報2017年5月号より


(2023.10.7) 
 以上の文章は私が6月はじめに書いた下書きだ。あっためておいた。ここからは、10月初めの私が続きを書く。この映画を再視聴した6月の私は、すごく嫌な気分になっていた。おそらく最後のシーンは、双葉の遺体を焼き、その火でお湯を沸かし、そこに家族が浸かっているというものだろう。「それは、なんか違くない?」と私は思った。だけど、もう一度振り返り、監督の文章を読み返して、思ったことがある。

 この映画のラストがどのような効果をもたらしているかはさておき、今監督の文章(二つ目の引用)を見返すと、共感できる。”物語”はあくまで作り物なのだ。物語は、基本フィクションであり、虚構である。だから、意味がある。限りなくリアリズムな映像という媒体を使用しているにも関わらず、ストーリーや編集等を操作できるため、現実から少しずらすことができる。だから、意味がある。


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