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米国東海岸 海事博物館巡りの旅(前編)



はじめに


1995年の10月に横浜帆船模型同好会(YSMC)の有志で米国の東海岸にある海事博物館を回って歩こうよと提案したのはこの会の仲間である中山宜長さんだ。マサチューセッツ州に勤務経験のある中山さんが、レンタカーで回れば大方の海事博物館を見て回れるだろうという算段だった。なぜ東海岸かというと、そもそも米国の発祥の地でもあり、いわゆるニューイングランドは秋の最中で黄葉も素晴らしかろうし、西海岸なんぞはねぇ、とカントリー音楽をいたく愛する中山さんの主張でもあったのだ。

この提案に、ぼくは一も二もなく賛成した。横浜帆船模型同好会の長老でもある渡辺晋さんも賛成し、会員古手の鈴木雄助さん、それと平戸重男さんが乗った。車だから5人で一杯。12日間で、ぜーんぶ入れて30万円まで掛からなかった安旅行だが、中山さんの名プランでワシントンD.C.を皮切りに、南はニューポートニューズから北はセイレムまで、ほとんどの海事博物館を見て回った。

日程からいうと、
第1日1995.10. 6 成田⇒シカゴ⇒ワシントンDC
第2日 10. 7 アナポリス・ネイヴァルアカデミー・ミューゼアム
第3日 10. 8 スミソニアン博物館、⇒ニューポートニューズ
第4日 10. 9 ヒストリック・ウィリアムズタウン
第5日 10.10 マリナーズ・ミューゼアム、⇒ワシントンDC⇒ボストン
第6日 10.11 USSコンスティテューション、ボストン美術館
第7日 10.12 セイレム、ピーボディ・エッセクス・ミューゼアム
第8日 10.13 セイレム、⇒プリマス⇒ミスティック
第9日 10.14 シーポート・ミューゼアム、⇒スタムフォート
第10日 10.15 ⇒ニューヨーク、サウスストリート・シーポートミューゼアム
第11日 10.16 ⇒ニューアーク空港、⇒成田
第12日 10.17 成田空港、帰宅
ということになるのだが、12日間の大旅行の間、ほとんど喧嘩もせず仲良く過ごせたのも帆船模型作りという共通の趣味仲間だったからだとつくづく思う。

25年前のこの旅行記は、もともとはぼくのエッセイとして横浜帆船模型同好会の機関誌『かたふり』や東京の木造帆船模型同好会ザ・ロープの機関誌『ザ・ロープニュース』に掲載したものだが、その後まとめてザ・ロープのホームページに載っている。このエッセイ形式はいろいろ制約があって、写真なしで書かざるを得なかった。旅行記というのは文章だけではなかなかそのイメージが湧かない。折角なら写真入りでこの旅行の分だけ独立して編集したいと思い立った。それが今回の旅行記になった。

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だからこれは本来の旅行記の形式になっていない。エッセイとしては何か一つのテーマを選んでそれを中心に書くので、時系列的に書いてゆく旅行記とは出発点が違うが、今回これをまとめるにあたってあえてその形式を踏襲した。ただ、海外に行くとき、いつでもぼくは小さなメモ帳を離さずに持っていて、日時と場所と何を食べたかなどを記録するという習慣がある。だから、メモ帳を繰って見るとまだまだ書くことが一杯残っていたので、ある程度は旅行記となるようにいくつかを追加してみた。写真をたくさん入れたのはもちろんだ。いくらかチグハグの感はあるけれども、こんな旅行記もまあ好かろうと思う。

同行した仲間を少し紹介しておこう。写真の右から中山、平戸、福田、渡邊、鈴木の各メンバーだ。

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主催者の中山宣長さんは、米国のマサチューセッツ州に会社から派遣されて何年か駐在し、ニューイングランドの影響を強く受けていると推察できる好漢だ。カントリー音楽を愛し、ジャズではなくこれが米国の本質だと主張する。また水彩画を得意とし、旅行中もよくスケッチをしていて、帰国後にその1枚を頂いた。

渡辺晋さんは大正生まれの大先輩で、大学時代はヨット部で鳴らしたという。体は細いがセミのように声が大きい。まったくのアルコール駄目体質で、クイーン・エリザベスのダイニングでワインのテイストで少し注がれたものを飲んで目を回したという逸話の持ち主。ザ・ロープの主要メンバーでもあった。

平戸重雄さんは地方公務員の経歴があり、帆船模型というより木工技術そのものに長けていた。工作機械を駆使し多角形の茶筒のような精密な工作を得意として、一時はDIYの木工部門の責任者としてお客さんに好評だったといわれている。

鈴木雄介さんは東北の出身で当時でもそのなまりの抜けない苦労人でもあった。沿岸汽船の機関長としての経歴が長く、帆船模型の技術は抜群でザ・ロープの主要会員でもあった。彼の製作した初代日本丸の模型はきわめて正確で、横浜みなと博物館に寄贈され今でもこの博物館で実物を見ることができる。(2020.10.20)


お話のはじまり
― セイレムのミルクティ ―


アメリカの東海岸、ボストンから北東へ車で30分(まともに行ければ)のところに、セイレムという小さな町がある。その昔、捕鯨船の基地として栄えたところだが、それよりもアメリカで唯一魔女裁判が行われたことで、つとに名を馳せている。

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何せ部屋に鍵をかけなくとも大丈夫という、アメリカとしては例外的に治安のいいところだし、少し旅にも慣れたから今日は自由行動だと、われら5人は思い思いに行動したあげく、昼食にまた寄り集まった。10月半ばのニューイングランドとはいっても、天気はいいし思いの外暖かい。お目当てのピーボディ・エセックス・ミューゼアムの他にもいろいろと歩き回って、少しばかり汗もかいたし、簡単な食事でゆっくりしようやと町中にある安食堂にぞろぞろと入った。

さほど広くもない半地下式の食堂で、奥の厨房の前に半円形のカウンターがあり、粗末なテーブルと椅子が何組かおいてある。旅行メモを見ると、そのときぼくはハムとチーズのサンドイッチと紅茶を注文したことになっている。

その紅茶が問題で、ぼくは大きな声で「・・それとミルクティ」といったのだ。とたんに、注文を取りに来ていたクリクリした目の、ぽっちゃりした若いおねぇちゃんが、ケラケラ笑ってそれおかしい、という。こっちは少しもおかしくないからきょとんとしていると、まだ笑っている。少しむっとして「日本じゃミルクティというんだぜ!」と念を押すと、かのおねぇちゃんはOK,OKと頷いて奥の厨房へ、「ミルクティ!!」と食堂中に響きわたるような大声で注文した。さすがに今度はぼくたちも一緒に大笑いになった。

それから彼女とすっかり仲良くなって、「本当はなんて言うんだい」と聞いたら、「Tea with milk (ティー・ウィズ・ミルク)」と言うんだそうな。一方で彼女はストローを2本持ち出して、箸の使い方を教えろといってきた。下の箸は固定して、上の箸で挟むんだよ、ほらね、とやって見せたがそんなに上手く行かないと、寄り集まってきた仲間ときゃっきゃっと笑う。箸が転げてもおかしい年頃とあって、まことに楽しい昼食だった。たった4ドルでこんな経験ができるのだから旅は止められない。

おまけにニューヨークのプライムリブ、スティーマーという変な貝とか、ボストンの由緒あるユニオン・オイスター・ハウスのカウンターでの牡蛎やチェリーストーンという天下の珍味を堪能するというおまけ、いやこれが半分は本命という食べ歩き旅行でもあったのだ。これから何回かこの旅をご紹介しよう。(1997.4.5)


1.ワシントンを目指して


1995年10月6日は金曜日だった。打合せ通りぼくは横浜帆船模型同好会のバッジをいくつかと同じ意匠のカフスボタンを4組用意した。これは親善用のお土産にしようとの魂胆で、後で大変役に立った。成田空港で仲間と合流してユナイテッド・エアー882便、ボーイング747-800に乗り込んで先ずはシカゴ空港に向う。この便はワシントンDC直行ではなく、シカゴで乗り換えなければならない。

安旅の選択だから仕方ないが、ぼくはトランジットとはいえシカゴは初めてでその点では大変いい思いをした。この空港は写真の通り大変混雑していて通関後に国内線に乗り換えるのに結構時間がかかる。国際線からモノレールで国内線のターミナルまで行って、さらにウォーキングパスで駐機場まで行く。

そこでやっと国内線に乗れるのだが、その飛行機がボーイング757というわれわれにとっては珍種だった。日本ではボーイングの747も767もよく見かけたが、どういうわけかこの757だけはまず見たことがない。やたらと胴の長いこの飛行機を見てやっぱりアメリカ!と思ったのだ。このUA882便でワシントンDCへ向い、到着した時にはもう午後5時半を回っていた。

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ワシントンのダレス国際空港はものすごく広い。ぼくは仕事の関係で何回もこの空港を利用したのだが、今は知らず当時は空港の建物から駐機場のターミナルまで大きな連絡バスで乗客を運んでいた。何のためか知らないが大きな2本の角が出た真四角の車体で、乗客は向かい合っている長椅子に座る。とにかく広くて大勢の乗客を運べるのだ。

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余談になるのだけれども、ぼくはこのシャトルバスの中で当時の総理大臣、宮澤喜一さんとちょうど向かい合ったことがある。なんとも気さくなおじさんという感じで、威圧感というものは少しもなかったのを覚えている。

ぼくが若かりし頃、学生時代だが、今は山下公園の埠頭に係留されている貨客船氷川丸で横浜から室蘭まで行ったことがある。そのとき東京湾の中で大発からタラップを上がってきた吉田茂さんを見かけたのだ。当時は芦田内閣で吉田さんは総理大臣ではなく野にあったのだが、近くで見ると圧倒的な威圧感があった。ぼくの歳のせいかもしれないが、こうも違うものかと今でも思う。

またもう社会人になってからだが、銀座のヤマハホールで西尾末広さんに会ったことがある。なに、エレベーターを待っている西尾さんを見かけたというだけなのだが、社会党系の重鎮だった西尾さんもただ静かに立っているだけで、十分な威圧感を持っていた。人というのは恐ろしい。やはりぼんやり生きていてはいけないのだと、そんなことを思わせる雰囲気だった。安倍さんや菅さんも直接会ったらそんなオーラを持っているのだろうか、ちょっとねえ、と思うが。(2020.9.24)

2.ワシントンの大船
―ワシントンDC-


1995年10月6日の夕方6時半、ぼくたち5人はワシントンD.C.のダレス空港に降り立った。今回ばかりはタクシーやバスという陳腐な乗り物に用はない。AVISと真っ赤に書かれたレンタカー会社差し回しの無料バスに乗ってアメリカでレンタカーを借りるのだ。もとより借りる交渉は(ついでにいえば運転も)中山さん任せで、4人ともバカみたいにぼーっと待っているだけだが、これが結構時間が掛かった。それでも真っ赤なマーキュリーのトランクにぎゅうぎゅう荷物を積み込み、横幅があるというだけの理由で助手席にぼくが乗ってさあ出発、となったら胸が躍った。

去年会議でここに来た経験からすると、タクシーでも市街地に入るには40分ほどかかる。とうに陽も落ちて真っ暗だし、何かと手間取って借り手の最後になったものだから、あたりに1台の車も見えない。まあゆっくり行くか、何年かの経験もあるし英語はできるし、中山さんの運転に何の心配もないと大船に乗った気持ちでいたのだ。

その大船が、レンタカー屋のゲートで何やら聞いている。OKとなって、出口を左折して突き当たりを右折したのだが、中央分離帯の左、つまりアメリカでの反対車線に入りかけておっとっと、危なく正規の車線に入った。ところが行けどもいけどもワシントンの街中どころか、どだい空港の敷地から外へ出られない。それでも中山さんはさすが大船だけあって毫も動じない。どうもいけませんな、ともう一度ゲートへ戻って、ぼくには聞き取れない英語で出口を確認する。今度こそは何号線だか見覚えのある道路に出る。やれやれと思ってから、かなり走っても依然として暗い道が続く。しばらくすると、「福田さん、そこに地図があるんで、ちょっと見てくれませんか」だと。

ぼくはナビゲーターをやるつもりはなかったのだが、行きがかり上やむを得ず地図を拡げる。もうポトマック川を渡って街中に入る筈なのだが、どうやら川を見落としてしまったらしい。仕方ないここらで降りますかね、と中山さんと相談して大きい道路から降りてもらう。しかし、どう見てもぼくの知っているワシントンではない。ウロウロしても何だからと、道端に車を止めてああだこうだと役にも立たない相談をしていると、車が1台通りかかった。地獄に仏とこれを止めて道を聞いたら、ちょっと年輩の女性が降りてきて親切に教えてくれた。何のことはない、ぼくたちはポトマック川の手前で道路から降りてしまったのだ。

何といってもここはアメリカだ。胡散臭いのが5人もいるのに、しかも暗くなっている中を女性1人で車を降りて教えてくれたのは奇跡に近い。心から有り難うを言って別れたのだが、暗い道路を今か今かと期待しながら走っていると道がなんと遠く感ずることか。それにしても幸先よいではないかと一同ホッとする中で、ナビゲーターのぼくの面目はまるつぶれ、しかもその後何度もぼくの面目がつぶれた。どうもナビの適性があまりないらしい。

ワシントンの街中の道路は、バッテン十字の上に縦横十字がたくさん重なっているような変な構造になっている。アメリカ人でもワシントンに車で行くなというよと中山さんがいうのだが、冗談じゃない、その街へ旅の最初に車で行ったのだから、ホテルを探し当てるまでにまたまた時間が掛かったのはいうまでもない。チェックインしたときはもう夜も10時を回っていた。やれやれ。(1997.8.30)

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3.アナポリス - 幻の軍艦三笠
―アナポリス海軍兵学校―

中学生(旧制だが)の頃、ぼくは海軍士官になって潜水艦に乗りたかった。戦時特例を利用して中学3年で受験した海軍兵学校の1週間続いた試験は、最終日で落第し夢ははかなくも泡と消えた。とうに軍艦のいなくなった海軍兵学校に入った友人が「米国はアナポリス、おれたちゃ穴掘リす」と毎日の防空壕掘りを嘆いていたが、そのアナポリスの米国海軍兵学校を50年後に訪問しようとは、神様だってご存じなかったに違いない。

ワシントンD.C.の東、車で1時間ちょっとのアナポリスは風光明媚でおよそ軍の施設という感じがしない。濃い緑に囲まれた広い道路を過ぎるとチェサビーク湾の青い海面が広がって、兵学校のゲートで迎えてくれた水兵さんに海軍だなぁと思うぐらいだ。中山さんが事前に連絡をしていたので、博物館にはロバート・サムロールさんとジョン・ハドックさんが待ち受けてくれ、その上思いもかけず日本の海上自衛隊からの連絡官永井澄生3等海佐も同席された。

長身温厚なサムロールさんはここの模型部門の長で、どちらかというと現代軍艦が専門らしい。ハドックさんは帆船が専門で、駆逐艦の艦長が似合うような鋭さを秘めた人だが、何せワシントンの交通事情はヴィンテージワインと違って年を経てもちっとも良くならないから遠回りでもベルトウエイを使えと、ホテルを出てからの道順を事細かに手紙で指示してくれた外見に似ず親切な人である。

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初対面の挨拶もそこそこに、まあとにかく見てほしいと館内を案内してもらったが、お世辞でなくここの収集は素晴らしい。帆船模型の展示品の中心はロジャーシップモデルコレクションの108隻で、1650~1850年のいわゆるドックヤードモデルである。中にはケースも当時のままで、あるモデルではケースの底に進水用のレールが組み込まれていて最近になってそれに気付いたとか。ハドックさんはそれを引っぱり出して写真に撮れと勧めてくれる。このあといくつかの海事博物館を見たが、ここが一番だねというのがわれわれ一同の感想だ。この博物館は年中無休で無料だから、機会があったら是非ご覧なることをお勧めする。

一般の人は入れないワークショップの中でいろいろ話しをしている内に(表紙の写真はこの時のもので、座っている人の左がサムロールさん、中央がハドックさん、右の影になっているのが鈴木雄介さんで、立っているのが渡辺晋さんである)、倉庫を見せて上げようということになった。天井も高くかなり広い倉庫にはいろいろのものがぎっしり詰まっており、現在整理中というのだが、こういうことになると人一倍鼻の利く渡辺さんが梯子の上にあがって銀製の薩摩藩の軍船を見つけた。傍らに漆塗りの箱に入った筆書きの文書があるという。許しをもらって拡げてみると、何と昭和35年、つまり1960年11月28日付で横須賀水交会がここ米国海軍兵学校に宛てた文書ではないか。

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達筆で書かれた全文の内容を後でご紹介するが、この文書によると、終戦時に当時のソ連が記念艦三笠の解体破壊を主張したけれども、アメリカとイギリスが反対したために上部構造物だけの撤去で済んだ。その後悲惨な状態で放置されていたが、1958年(昭和33年)に三笠保存会ができて復元工事が始まり、募金運動にアメリカ海軍から多大の協力を頂いた。工事は1961年(昭和36年)に完成の予定である。ついては感謝の意を表するために、元海軍大尉谷上泰造が製作した軍艦三笠と咸臨丸の模型を横須賀米海軍基地司令官経由で米国海軍兵学校に寄贈する、というのだ。

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日本海海戦の旗艦である三笠を、当時のソ連が破壊したいというのはあり得ることだが、それがアメリカやイギリスの好意的な反対で阻止できたとは知らなかった。奇しくも35年後に帆船模型を趣味とするわれわれの目に触れたのも何かの縁である。サムロールさんたちにこの文書の大意を説明して三笠や咸臨丸の模型がある筈だが、と聞いてみたが分からないという。

日本字の読めない彼らは傍らにあった薩摩の軍船の説明文だと思っていたらしい。渡辺さんが無理を言ってその文書をコピーしてもらったか、今ぼくの手元にそれがある。英訳して送り、模型を探してもらおうと渡辺さんがいっていたのだが、どうなったのだろう。それにしてもアナポリスで幻の三笠に会おうとは、世の中何があるか分からない。(1998.1.15)

上記の文書は貴重なものなのでここに掲載する(原文は句読点なし縦書き墨書の立派なものだが、ここでは内容だけにしてある)。

記念艦三笠は第二次世界大戦の終結に際し之が解体破壊を強く主張する「ソビエット」に対し将来の復原を予期された米、英の好意ある反対に依って上部構造物だけを撤去し艦体は其の儘とする事に決定せられましたが戦後の混乱により誠に悲惨な状態でその侭放置せられてありましたが日常生活が漸次安定するに従って国民の間に復原の保存の気運が起り遂に一九五八年民間有識者を発起人とする「三笠保存会」が設立され募金運動の開始せらるゝに至りましたところ在日、米海軍が率先之に協力せられた好意に対して国民は深甚なる感謝の念を有すると共に此の事実は一般国民の三笠復原に関する熱意を高め其の募金運動は順調に経過しつつあります、復原工事も一九五八年末より開始され一九六一年度には完成の予定であります。
旧日本海軍士官を会員とする横須賀水交会は米海軍の三笠復原に対する絶大なる好意に対し感謝の微意を表する為記念艦三笠及び一八六〇年日米修好通商条約締結の為日本国軍艦として初めて米国を訪問した咸臨丸の模型を米国海軍に寄贈しようとするものであります、本模型は両艦共本会々員である元海軍大尉谷上泰造が当時を偲んで製作したものであります。
記念艦三笠は「アジア」の平和及び日本国存立の為戦はれた日露戦争に東郷元帥の旗艦として赫々たる戦歴を有する事を考へまして、今日自由国家群の中核として世界平和の為に奮闘せられつゝある米海軍に寄贈する事は喩え粗末なものであっても極めて意義ある事と信じますので横須賀米海軍基地司令官を経て米国海軍兵学校に寄贈する次第であります。

昭和三十五年十一月二十八日
横 須 賀 水 交 会   

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現在の三笠記念公園


4.ワークショップ
—アナポリス海軍兵学校—


ちょっと話が先走ってしまったが、博物館の内容と、ワークショップでの歓談をここでもう少し残しておきたい。事前に連絡をしてあったので、印刷したゲストのタグをもらったが、どういうわけかザ・ロープの人だと書いてあるが、悪い気はしない。

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前にこの博物館の中心はロジャーシップモデルコレクションの108隻だと書いたが、これがすばらしい。中でもソブリン・オブ・ザ・シーズの1/48モデルは圧巻で、1918年から1920年の間にヘンリー・カルバーさんとポール・カルフィンさんが作り、帆とリギンは絹だと書いてある。また沢山ある中のいくつかの写真を揚げておく。

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シップ・オブ・ボーンというコーナーがあって、骨で作った船が展示されている。骨というのはどうやら食用の牛の骨らしく、ハドックさんの説明ではほとんどが捕虜の作品だという。監禁されてやることもないので作ったのか、あるいは好意を得ようと贈り物に作ったのかよく分からなかったがそんな説明だったようだ。

もっとも骨の船といっても木で作った船体に骨を張るということで、もともと骨で作るわけではない。これが珍しいのか観客がこのコーナーには多い。監禁の身でもちろん図面もないのにかなり正確に作られているから、当時の船乗りは(現在でもそうかもしれないが)頭の中に船の諸元がしみ込んでいたのだろうと思う。

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そのうち、永井3等海佐がぼくに「フトックシュラウドって何ですか?」と聞いてくる。「マストのシュラウドのこの部分ですよ」と指さすと、ああそうかと納得した様子。現代軍艦ではフトックシュラウドはないものなあ、無理もないか。ぼくたちの通訳が必要かと永井さんが来てくれていたのだがこれは大丈夫と思ったのだろう、所用がありますのでと丁寧に挨拶して出て行かれた。

館内見学が終わると、ハドックさんはワークショップで話をしようと誘ってくれる。博物館の一隅に仕切られた部屋があって、外から見るとサムロールさんが見える。中はかなり広くて、区切られた他の部門もあるようだが、ここが私のところとハドックさんが作業場を見せてくれた。二層甲板艦を作っているらしい。

われわれはそれぞれが制作過程のある写真集を持って行ったのだが、それを見ながらモデラー同士の話が始まった。言葉の問題はもちろんあるのだが、写真を指しながら専門用語が飛び交うから、その点はあまり不便を感じないという珍現象も起こった。

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ぼくはカティサークの製作過程を見せてプランキングには黒檀を使ったのだが、銅板の部分はもったいないからヒノキを使ったのだと白(ヒノキ)と黒(コクタン)の交互になっている部分を指さす。ハドックさんはおれもそういうことをやったことがあるよ、とにっこり。夢中になると、こんな図面もあるよとハドックさんは引き出しをかき回して探してくれたりする。リギンには麻糸がいいのだが、今はなかなか手に入らなくて、昔買ったものと使っていると、プロの洋服屋が使うような円錐形になった大型の糸巻きを指して言う。

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そのうちに、どうだい倉庫を見てみるかと誘われて見たのが前回の騒ぎになったのだが、その倉庫はかなり広くて実にたくさんのものが置いてある。書籍も多くが無造作に置いてあるのだが、ちゃんと見れば貴重なものも多そうだ。日本の海事博物館もモデラーにこんなに友好的であればいいなと思う。
(2020.10.22)


5.シエンティア (SCIENTIA) って何だ?
―アナポリス海軍兵学校―


再びアナポリス。
歴史は人間の物語 ― 人間の衝動や夢の物語だといったのはバーサ・サンフォード・ダッジ女史だが、ぼくたちにとっても人間の物語として歴史を読むのは楽しい。まして外国を旅するならばその歴史を知らなければと常々いわれながら、ついそのままになっていたのだが、最近になってサムエル・モリソンの「アメリカの歴史」を手に入れた。だが文庫本の各々500ページを超える5巻を読むのは大仕事で、まだ2巻目の半分ほどを読んだに過ぎないけれども、このアナポリスが建国前後のアメリカにとって極めて重要な都市であったことが理解できる。そのころはワシントンDCなんぞ陰も形もなかったのだ。

私掠船から発達したアメリカ海軍がやがて世界に君臨するまでの歴史がこのアナポリス海軍兵学校に凝縮されているような気がする。それは勿論この博物館の展示に如実に現れているのだけれども、もう一つ、昼食にサムロールさん達と近くの街へ出たときにも、僅かに感ずることができた。時間がなかったから、アナポリスの街を見学することはかなわなかったが、兵学校の営門を出て少し歩いた街がいかにも古い。アンティークの店あり、食器店 あり、洋装店ありなのは当然だが、その各々がいかにも風雪を感じられるおっとりとした、ヨーロッパのような雰囲気なのだ。

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近くのレストランでサムロールさん達とランチ

やがて入ったレストランも、どこにでもありそうな古風な店ながら、木造の高い天井、くすんだ太い梁、ぎしぎしという木の椅子。サムロールさんのなじみの店らしく、愛想のいいおばちゃんに席を用意してほしいと頼んでいる。一行7人がテーブルを囲むと、ハドックさんがここの名物はね、とメニューを見ながら強制するわけではないがと目で知らせて、クラブケーキだという。中山さんの説明(通訳)ではどうやら蟹の卵焼きのようなものらしい。

チェサビーク湾は有名な漁場だから、蟹が捕れるのかどうかは別として、海産物はきっとおいしいに違いない。ぼくは一も二もなくそれを頼んだ。土地の人が旨いと言えばほぼ間違いない。果たして出てきたのはイングリシュマフィンを二まわり大きくしたような蟹の、まあ卵焼きというか、オムレツというか、何せ、むやみとおいしい。おかげでそれ以外に一体何を頼んだかさっぱり記憶にない。

歴史探訪を終えて博物館に戻ると、恭しくぼくたちに大きな封筒が渡された。兵学校の案内やら書籍の案内、展示模型の説明等が入った大部の資料だが、ぼくたちが驚いたのはその中にカラー印刷の「名誉訪問者証」が入っていたことだ。枠の中の上に海軍兵学校船舶模型協会(Naval Academy Ship Model Society)とあり、その下の楕円形の枠に薄墨のシップ型帆船があり、その真ん中に縦の楕円でNASMSの頭文字がデザインされている。その上に、色を変えて名誉訪問者(Honored Guest)とあり、何とその下には大きなイタリックでミスター・マサヒコ・フクダと書いてあるではないか。両側には1995年10月と日付まで入っている。

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ハドックさんはニコニコして、コンピューターで初めて打ち出してみたのだが、上手くいったという。これは一枚の紙ではない。船の模型を趣味とする日米の仲間の確たる親善の証ではなかろうか。だからこれはぼくの宝物で、今も額に入れて机の横に掛けてある。そしてもう一つ、兵学校のバッジを頂いた。金色の小さなものだが、上にU.S.とあり左右にNAVAL ACADEMYとある。それはいいのだが、その下にSCIENTIAとあるのが分からない。

68.兵学校の徽章 (2xx)

帰国後、いろいろ調べたが分からない。どうやらラテン語らしいと見当をつけて、ぼくの友達でラテン語を知っている人に聞いてみて初めて分かった。オックスフォードのラテン語基礎辞典によると、SCIENTIA (シエンティア) とは「知識、学、インテリジェンス、科学的手腕、専門、芸術理論」という意味があると。

ここでぼくは初めて納得がいった。アメリカの海軍兵学校で目標としているのは、戦を教えるばかりではなく、その基本として叩き込むのは、学問でありインテリジェンスである。だからネイヴァル「アカデミー」なのだろう。日本でもそうだったのだと、ぼくは信じたい。(1998.8.1)

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6.将校生徒
―アナポリス海軍兵学校―


その昔、というのは戦前なのだが、ぼくは海軍兵学校に入りたかった。その理由は単純で学校に兵学校の先輩が来てわれわれを勧誘したからだ。制服がまた良かった。紺の詰襟で上着の裾は短く、短剣をつって颯爽とわれわれの前に現れた。1号生徒という最上級生3人の中の1人は襟に桜の記章を3対も付けていたのだ。

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「彼の付けているのはチェリーマークといって、優秀生徒に与えられるものだ」と、多田さんという先輩がいう。
「戦争に兵は大事である。しかしそれを統率する士官がいなければ、そもそも戦は成り立たない。諸君は勉強して兵学校に来い。」
それでぼくはいちころだった。

もっとも本来ぼんくらだったぼくは、残念ながら試験に落ちて多田さんの後を追うことはできなかったが、そのときに「兵学校」というのは兵隊の学校という意味ではなくて、「兵科士官の養成学校」という意味だと知った。海軍の軍制によると兵科と機関科を「将校」というのだ。それ以外の例えば主計科や軍医科などは「将校相当官」という。だから海軍兵学校の生徒を「将校生徒」というんだとぼくに教えてくれたやつ(予科兵学校に入ったやつだが)が得々という。

それはどうでもいいのだが、そういうわけでぼくが米国の海軍兵学校にも多大の興味を持っていたのは間違いない。ハドックさんに案内されて校内の売店でいろいろな本を漁って2,3冊を購入し、受付のおばちゃんに日本まで送ってもらうことにした。

「船便でいいの?」
というのだが彼女のいう「by surface?」というのがピンとこない。え、え、と思っているうちに「by shipよ」、といわれた。ほんとに恥ずかしい。空便でなく地上便(まあ海面も表面だから)だからとちょっと考えればわかるのに。もっとも先方も輸送費を間違えたらしくて、後日手紙でその差額を請求されたから、どっちもどっちだ。

そうこうしているうちに、外で何やら賑やかな楽隊の音がする。何だろうと思ったらあの「将校生徒」の行進が始まっているのだ。ハドックさんは今日サッカーの試合があるのでその応援に行くらしいと説明してくれた。正規の行進ではないのでリラックスしているはずなのに、どうして、どうして堂々たるものだ。国旗と2本の旗が先頭に行くのだが、両翼に小銃を担いだ生徒が付く。軍旗の護衛だろう。その後に生徒の隊列が続くが、先頭にひどく背の低い生徒を含めた2人がいる。

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よく見ると袖章が他の生徒と違って少し太いが、それ以外は同じだからおそらく引率の先任生徒(日本でいっていた一号生徒)だろう。
あまり大勢ではないので応援の有志だろうと想像できるのだがやっぱり軍隊で、ぞろぞろ歩くということはないのだ。その後ろに鼓笛隊が続き、最後に小さな軍艦を模した車が続く。ここには作業衣の3人が乗っていて、女性の2人がニコニコしている。面白いのはこの小さな軍艦に3連装砲塔が2基もついていることだ。こうして見るとやっぱりお祭りなんだなあと納得がゆく。

将校生徒で思い出したのだが、ぼくが中学生のころはほとんど学徒動員で勉強どころではなかった。ぼくたちは海軍経理学校の農場用に接収された千葉県は我孫子にあるゴルフのカントリー倶楽部に行って芝生を剥がしてサツマイモの苗を植えるという作業をやらされた。その間にぼくは疥癬(かいせん)という病にかかって海軍の病院に入院して治療を受けたことがある。
看護婦さん(当時は看護師ではなかったのだ)が少年だったぼくに大変に親切にしてくれたが、そのときに言われた言葉が忘れられない。

「あなたね、海軍に入るなら絶対に兵学校でなければだめよ!」
と強調するのだ。
「どうしてですか?」
「軍隊はね、兵科の将校でないと指揮権がないの。主計科はどんなに偉くても、指揮はとれないのよ。」

そのときはあんまりピンとこなかったが、フィリップ・マカッチャンの「炎の駆逐艦」を読んで納得した。駆逐艦カマーゼンは大破され、瀕死の重傷を負った艦長は一等水兵のファロウに指揮権を任す。生き残った士官に機関長のマシュウーズ大尉がいるのに、だ。なぜ、艦長が機関大尉にではなく一等水兵に指揮権を任せたか。それはやっぱりファロウが兵科の指揮系統に入っている生き残った最高の階級だったからだ。指揮系統というのは、軍隊組織の中でそれほど絶対的なものだと、この物語は言っている。(2020.10)


7.スミソニアン博物館
―ワシントンD.C.—

10月8日は日曜日だったが、ニューポートニューズへ移動する前にスミソニアン博物館へ行こうよと相談がまとまった。スミソニアン博物館群といって、ここにはいろいろな博物館が集まっているのだが、われわれのお目当てはやっぱり「航空宇宙博物館」になる。ぼくはこの博物館は3回目になるのだが、それでも見たいとしきりに思う。なぜかというと、ここに集まっているのはすべて本物だからだ。

中二階から見るとダグラスDC3が目立つ。この飛行機には乗ったことはないが、DC4には新婚旅行で大阪から羽田まで乗ったことがある。DC3とDC4との大きな違いは前者が前輪のないこと、つまり後ろに尾輪があって着陸すると全体が上を向いていて止まる。これは当時のプロペラ機の特徴で、DC4からは前輪があるので着陸すると全体がほぼ水平になる。
ぼくはダグラスはDC4、6、7C、8と4機種乗っているが、7Cはターボプロップ機、8になって完全なジェット機になった。このジェット機は生まれて初めてヨーロッパに行ったときに乗った飛行機で、北極を通過したから思い入れが強い。

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(上)ダグラスDC3 (下)ゼロ戦

もう一度見たかったのがゼロ戦だ。正式には零式(れいしき)戦闘機という。ゼロは英語で、戦時にアメリカで「ゼロファイター」呼んだのがそのままゼロ戦になったのだろう。ぼくが思い出すのは、開発途上で名古屋の三菱の工場から飛行場まで機体を馬車で運んだという記録のあることだ。その馬にはペルシュロン種が使われたという。この馬は力が強くておとなしいので運搬にもってこい(何しろ道路が舗装されてなく、がたがただったという)だからというのだが、当時の世界最新鋭の戦闘旗を運ぶのに馬車を使った、というギャップにびっくりしたことがある。国全体の技術水準が相当いびつだったんだと、そのときつくづく思った。

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スピリット・オブ・セントルイス
もう一つ「スピリット・オブ・セントルイス」がある。リンドバーグが単独で大西洋横断飛行に成功した機体で、ぼくはわくわくしてその記録を読んだものだ。なにしろこの飛行機には前に窓がない。何故かというと、大量の燃料を積むために丁度翼の下の重心位置にバカでかい燃料タンクを設けたからだ。そのために操縦席はその後ろにならざるを得なくて、前を見るには潜望鏡のようなもので見るしかない。ほとんどの航程を横を見ながら飛んだという。当時の冒険野郎といった感じがこの機体にはあるのだ。

この航空宇宙博物館は、それぞれ単独で回ったのだが、その後みんなでアメリカ歴史博物館へ回った。歴史ねえ、と思ったのだがそれがなかなか面白い。中でも目を引いたのが実物のガンボートだった。
これは南北戦争で実際に使われたもののようで、カノン砲やスイーベルガンも残っている。こういった類の本物に出会うことは珍しい。小さい船体の割には重武装で、おそらく川で使われたのだろうから居住の心配がなかったせいだろうねえ、と渡辺さんがいう。

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昔のエンジン
少し下がったところに昔のエンジンがある。かなり大型のものですぐ傍に速度指示器があって機関室を模しているのかもしれない。舶用エンジンとなると鈴木さんの出番で、ああじゃこうじゃと専門的に説明してくれるのだが、どうも今一つ納得がいかない。また、いろいろな計器類もおそらくこれは何の計器と説明してくれるのだが、まあこっちはどうでもいいような気になる。しかし、こういった小物まで展示してあるのが何だかうれしい。

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船にはあまり関係がないのだが、中山さんが熱狂的に興味を示したのが馬車だ。この人はコロニアル・ウィリアムズバーグでも馬車とみると追っかけて行ったぐらいだから、この博物館で大いに気に入ったとニコニコする。そうかと思うと開拓時代の幌馬車もあって、いやー西部劇に出てくるやつだとみんなで感心。これは思ったよりもかなり大きくて西部ならでは、狭い道だとだめだよなあと納得する。

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一方で、米国陸軍の銃器の歴史といって小銃や拳銃の時代ごとの展示があったりする。日本での歴史博物館で現代の銃器を扱うことはまずない。自衛隊はあるけれども、国立の歴史博物館で現代兵器までの歴史を取り上げることはないだろう。そのあたり、当然「軍隊」が昔から存続する国とは違う。いい悪いは別として、そんなことも考えさせられる展示だった。また、英国でおなじみのピストルによる決闘用だろうか、2丁の拳銃が組になったセットも展示されている。火薬入れや弾丸の製造器も入っていてやっぱり本物だ。
小学校の時に友人がこのようなセットを「おやじには内緒だけど」と見せてくれたことがある。どうやらこれは趣味のコレクションだったらしいが、武器というものは間近で見るとかなり恐ろしいものだとその時に感じたのを覚えている。(2020.10.18)

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小銃や拳銃の時代ごとの展示



8.キャプテン・ジョージ
―ニューポートニューズ


10月8日は日曜日だったが、スミソニアン博物館などを見た足で、ワシントンダレス空港へ行き、例のように大型のシャトルバスで国内線の特に小さな飛行機専用だろうと思われるターミナルから、ジェットストリーム32という、名前ばかりは勇ましいがターボプロップ20人乗りの双発プロペラ機でニューポートニユーズへ飛んだ。

アメリカの東海岸にはニューポートという町もあるが、あそこはボストンのすぐ南で、このニューポートニューズはチェサピーク湾の出口に近く、両方の町は直線距離にしても700km以上離れている
この飛行機は操縦席のドアも開けっ放しで客席からパイロットが見えるという簡便さだ。いつだったかの出張で、この飛行機が着陸の時にみんなが拍手する。パイロットの説明が分からないので隣の人に聞くと副操縦士が初めて自分で着陸をしたのを祝福したのだという。まあねえ、おめでたいが知らぬが仏という感もある。

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やがてこの小型機はチェサピーク湾の出口の近くに差し掛かって海面が白く光りだす。着陸したニューポートニューズの空港は燦々と陽が降り注いて南国という感だ。わがジェットストリームはお尻の近くのバタンと倒した階段から、自分で荷物を取り出して(一番後ろが荷物室)降りるのだ。着陸は午後4時33分だった。

空港のAVISでレンタカーを借りたのだが、取りに行った中山さんがいつになっても帰ってこない。やっと戻った中山さんに聞くととんでもない広い場所で、探すのに大骨を折ったと。申し訳なかったがそれでも今度のオールズモービルはいくらか大きくて余裕がある。それほど遠くはないのに、例によってすぐにはホテルに入れない。二回か三回も失敗して今夜の宿コムフォート・インに到着したのは午後の6時近かった。

「エー、私の調べたところではキャプテン・ジョージというシーフードのレストランがいいそうです。予約しておきましょう」
という中山さんの提案で、一同喜び勇んで車に乗り込んだまではよかったのだが、どうしてもそこにたどり着けない。住所は分かっているし、標識もしっかりしている。何でたどり着けないのか誰にも分からない。ぼくはナビゲーターの役割上、必死になって地図を眺めるのだが、ある筈のところに道路がないのだ。ほんの車で10分ほどの筈なのにと、何せ乗っているのは黙って座っている連中ではないから、ああじゃこうじゃと姦しい。

7時を過ぎて、いよいよ見つからなければ近くで食事にしようよと、弱気な発言まで飛び出したが、前日の夕食を取ったイタリーレストランが、値段ばかり高くてちっとも美味しくなかったから、意地でも美味しいものが食べたい、取りあえずとって返してもう一度電話を入れようと、大船である中山さんの提案で、ホテルへ戻った。聞くと何のことはない、道路標識で百何号線だかと書いてあるのは、その先がそうだという意味だったのだ。暗いのと慣れないのとで、それを見落としていたというわけ。

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8時を過ぎてやっとたどり着いたレストランで、まぁどうしたの、心配していたのよ、と若い女性に迎えられてこんなにほっとしたことはない。暗い道路に大型帆船を模した赤いネオンだけが目印のこのキャプテン・ジョージは、期待に違わず美味しい店だった。
「まぁ、白ワインですかな。」
ブーブーいったのはどこへやら、もみ手せんばかりにメニューを眺めて渡辺さんも平戸さんもニコニコしている。生蛎は小振りだったが、海のにおいが立ってつるりと喉を通る。
「蛎も海老もうめぇよなあー、どうもおれは魚が好きでよ」
とこれは鈴木さん。好みだけれども、大型のシュリンプはさっとバターで炒めただけでレモンを絞って食べるのが最高だ。そして、旨いレストランの例に漏れずここのパンも上等で、あっさりした料理と一緒にいつの間にかお腹が一杯になっていた。ここはアメリカだから、蛎と海老とサラダといっても量が違うのだ。

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これだけ食べて、飲んでおまけにチップまで込みで180㌦、5人だから1人あたりにすると36㌦になる。地方都市とはいっても満足度からするとかなり安い。この1995年は円相場からすると大変面白い年で、5月には1ドル83円という記録的な円高になっている。 もっともこれは長続きせずに10月の平均は1ドル102円ほどだ。われわれの旅は、だから平均して1ドル100円ちょっと、と考えればいい。キャプテン・ョージでは3600円ほどで楽しめたのだ。

それはともかく、満腹して少し冷えてきた夜空を仰いで、明日も来ようかなどといいながら帰ったものの、来た通りに帰った つもりが、またも道に迷ったのはキャプテン・ジョージが幻の店だったからではないだろうか。(1998.10.18)


9.アップルサイダー
―コロニアル・ウィリアムズバーグー


1995年の10月9日、ここニューポートニューズの主目的であるマリナーズ・ミューゼアムは後回しにして、われら一行5人はまずウイリアムズバーグの見学に出掛けた。アメリカ建国前から重要な都市だったここには、植民地時代の町筋がそっくりそのまま残っているという。だが、例によって先ずまともには行き先に着けない。

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「すいません、ウイリアムズバーグはどこでしょうか?」
「ここはウイリアムズバーグだよ」
「でも?」
変な問答になったが、そう、われわれが行きたいのは「コロニアル・ウイリアムズバーグ」だったのだ。まあいってみれば町の中に「植民地時代」が公園のように保護されているということ。

ところが、この街はぼくが想像していたような一皮並びの保存地域ではなくて、文字どおり街全体が復興保存され、当時の服装をした職員が、鉄砲鍛冶から銀細工屋、雑貨屋、薬屋、馬具屋に至るまで実際に実演をしている。さすがにすべての店ではなく、曜日によって開店している店は違うのだが、それはビジターズコンパニオンという新聞にちゃんとでている。保護は徹底していて、車はビジターセンターから中へは入れないし、料金もベーシクパスで25ドルと少し高いが、それだけの価値は充分にある。

燦々と輝く陽を受けて、もちろん舗装などないフランシスストリートからグローセスターストリートというメインの通りに抜けると、途中に小さな亭があったり、可愛らしい畑に何やら菜っぱが植わっていたり、扉を開けていきなりロングスカートのおねえさんがでてきたり、至る所で18世紀に直面する。鉄砲鍛冶は1枚の鉄板を丸めて銃身を作っているのだが、その継ぎ目をどうやって裂けないようにするのか今もって謎だ。

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人で一杯の雑貨屋をごそごそ探し回っていた渡辺さんがビーワックスの塊を見つけてきた。この蜜蝋製の蝋燭などはあちこちで売っているけれども、3センチも厚さのある四角い塊は珍品といえる。今でこそ東急ハンズで手に入るが、これで糸をしごけば最高だと何だかえらく得をしたような気になった。ぼくがこれを4つに分ける役を仰せつかったのだが、まあこれが難物でとうとう糸鋸で切った上に(すぐくっついてしまうので)金槌で割るという手間が掛かった。

店も多いし人も多い、パカパカと馬車が来れば馬車狂いの中山さんがカメラを片手に追っかけるし、息子の2人の嫁さんには平等にしなきゃ、と平戸さんは土産物屋を漁ってどこへ行ったやら。渡辺さんは銀細工屋のスプーン作りの前で動かない。鈴木さんはと見れば、店の軒先に突き出ている飾り看板を見て歩いてはひどく感心している。

昔の罪人の拘束具だろうか、手枷、首枷の多分レプリカだろうが女の子が首と手を突っ込んでキャッキャと笑っているが、ねえ君、昔の罪人だか謀反人だか知らないが、こうやって晒されたら相当ひどいことになるんだぜ、と、まあ言っても無駄か。平和な世の中を有難いと思うことにしよう。

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いやはや一汗かいたし喉も渇いた。ふと傍らを見ると、白いメイド帽にエプロン姿の可愛い女の子が樽の前でにっこり笑っている。手書きの看板にはアップルサイダーとある。
「アップルサイダー?」
「そう、とってもいいわよ」
一も二もなく注文すると、樽は見せかけで、中のステンレスだろう氷詰めの容器の中から、後ろにいた若い衆が大振りのコップに柄杓で掬ってくれた。茶色の少し濃度のあるりんごジュースが好ましい香りと一緒に冷たく喉を通って行く。これを甘露といわずして何というか。子供の頃、熱を出して寝ているぼくに、母がりんごをすり下ろしてガーゼで絞って飲ませてくれて以来、こんなおいしいジュースを飲んだのは久しぶりだ。

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何だ、たかがりんごジュースじゃないか、と言ってほしくない。アップルサイダーはそんじょそこらのりんごジュースとは違う。もちろん炭酸ガスが入っているわけでもない。ほんとのアップルサイダーは市販のりんごジュースと違って殺菌しない。つまり文字どおりの生ジュースだから、家庭かこういった特定のところでしか飲めない。もっとも、それだけに製造や保管が悪いと問題で、アメリカではこれが原因でO-157騒動が起きた。われわれは幸運だったのかも知れないが、フグじゃないけれども旨いものと危険とはどうも背中合わせのようだ。

やがて街の奥に入るとそこに総督邸がドンと居座っている。当時は重要な街だったから、ここの総督というのは相当の大物だったに違いない。長いこと待たされて邸内に入ると、なるほどこれが総督の邸宅かと納得がいく。

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特に大量の剣、まあサーベルというよりもカットラスといった方がいいような実用的な大型の剣が壁にずらりと並べてあるのを見ると、これが装飾ではなくて事がおこったときの防御策であろうと想像がつく。戦乱の時代だったのだ。その総督邸を出てすぐのところに馬車屋さんがある。いまでも職人が木造の車輪を実際に作っているのだ。これは難しかろうと見るだけでわかるが、こうやって技術も伝承されてゆくのだろう。

帰りのバスを待って屋根付きの停留所に入ったとき、メイド帽を被った可愛い女の子と弟だろうこれもたぶん買ってもらった帽子をかぶって大人しく座っている。やあ、と手を振ったらにっこり笑ってくれた。

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原文(1999.2.9) 改定(2020.10.18)



10.マリナーズ・ミューゼアム
―ニューポートニューズ


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本当のことをいうと、ここニューポートニューズへ来た目的はマリナーズ・ミューゼアムの見学だ。このミューゼアムが主催して5年に1回コンペティションが開かれ、ちょうどわれわれが行った1995年にコンペがあった。ザ・ロープの坪井さんの作品が推薦ということで展示されているので、それを見るのも楽しみのうちだ。

このコンペはノーティカル・リサーチ・ギルド(Nautical Research Guild)が協賛していて、ワシントンへ行く飛行機の中で、中山さんからその審査規準だという英文の5ページにもわたる資料を手渡されていた。全部は読めないけれども、その資料によると著者はこのギルドのディレクターであるアランD.フラツァーさんで、いろいろなコンペの審査もしている。

延々とその審査の過程を述べているのだが、100点満点の内容を大きく分けると、「全般的な印象」が10点、制作者がどれほど正確に調査をしているかという「調査」に20点、「難易度」に20点、「スケールの正確度」に20点、それと「クラフトマンシップ」に最大の30点を与えている。このクラフトマンシップというのは辞書には「技能」とか「腕前」とか載っているけれども、ぼくにはどうもそれだけではないように思える。いってみれば、作品に制作者の“心意気”といったものが感じられるかどうかも含まれているのではないだろうか。

それはともかく、フラツァーさんは「審査というのは容易な仕事ではない」と書いているが、そうだろうと思う。また審査項目はコンピューターにのせられるようなものではない、だから人が審査するんだともいっている。こういう審査を経ることで作品とミューゼアムの権威も高まるのだろうし、アメリカ式のやり方が分かって面白くもある。

われわれが訪問したのは午後1時を回った頃だが、広大な林の中にある白亜の建物は物静かで、人もほとんどいない。館内すら深閑としていて、コンペの作品がどこにあるやら、受付の元お嬢さんすら、はてなという躰だった。もちろんコンペそのものはとうに終わっていて、入賞と推薦の作品が並んでいるばかりだから、華やかさというものはおよそないのだ。が、ずっと奥にある入賞作品を眺めると、さすがに見応えがある。

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金賞は2本マストのヨットで、右舷側にプランキングがなく内部照明で中が見え、キャビンの戸棚まで開くようになっているのが分かる。「プッシュボタン」という奇妙な名の船だが、しみじみ眺めるといかにもこの船が可愛くってしょうがないという作者の気持ちが伝わってくる。

確か銀賞だったと思うが、女性の作者のボート、これがまたいい。オール1対の小さなボートだが、この船の持つ凛とした気品というものが審査員にアピールしたのではないだろうか。簡素な美しさを教えてくれる作品だ。

アメリカでは帆船も現代船も同じレベルで扱われるから、スマートな駆逐艦や商船も展示されている。しかし、現代船はどちらかというと艦橋構造のようにプラキャストがものを言う場面が多い。アメリカでは帆船も現代船も一つの歴史のラインに沿った流れとして違和感がないのだろう。その辺の感覚はわれわれとちょっと違うが、それはわが国にフルリッグドシップの長い歴史がないからに違いない。

坪井さんの作品は「推薦」で、小さなテーブルに一つだけ飾られていた。あった、あったと皆で取り囲み、満足してほかへ回る。

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スモールクラフト・コレクション
本館から少し外に、大きなトタン屋根の建物があって、スモールクラフト・コレクションとある。ベニスのゴンドラからテムズ川のスチームボートまで、本物の小艇が雑然とおいてある。将来整理するんだろうが、とにかく集めておく、というやり方も一つの方法だなあと思わせる。

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やがて見学を終えて外へ出ると、松林の中の木製テーブルで年輩の女性が二人、弁当を使っている。どうも日本人らしいぜと遠巻きにしてみな躊躇しているうちに、渡辺さんつかつかと進んでなにやら話しかけている。にぎやかな話し声におそるおそる近づくと、結婚して戦後間もなしに移り住んだ人たちだそうで、持参のお稲荷さんや太巻き寿司を「そろそろおいしくなる頃でしょ、どうぞ召し上がって」とおっしゃる。思いもかけぬご馳走に預かったが、これをもたらした渡辺さんに、誰やらが密かに“ババゴロシ”とか訳の分からぬ賛辞を呈していたっけ。

そして翌日、ボストンへ発つ前にこの博物館の裏側に回ってみた。海を見ようよという鈴木さんの要望があったせいもある。この日の朝食のスポンサーがこの鈴木さんで、大量にカップラーメンを持ち込んでいたのだ。この人はかなり和食党で多分恋しくなるだろうと用意したらしい。しかし思ったほどではなく(魚があるのでね)この朝にみんなで平らげようとなったのだ。

海側に回ると「マリナーズ・ミューゼアム・パパーク」という標識があった。この博物館は公園園の中にあるのだ。海を見るとはるかに長大なな橋が架かっている。これを渡るとノ―フォーークにでる。ここは有名な海軍基地で、潜水艦基基地でもある。

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ここニューポートニューズは造船所があっておそらく軍艦を作っているのだろう。ホテルからここまでかなり混んだのはその造船所への通勤の車が多かったからだ。

やがて空港についてレンタカーを返す。といっても世話は全部中山さんで、燃料を満タンにしてこいの、遠い場所まで置いてこいだとか大変だった。知らぬ顔の半兵衛ではないのだが、こればかりは中山さんでないと務まらない。

帰りも例のジェットストリームなのだが、驚いたことに乗客を乗せてから給油をするのだ。まあ見てほしい。このおっちゃんは給油をしがらよそ見をしている(ちょっと顔が黒いので分かりづらいが、本当だ)。アメリカでは小型飛行機は自動車並みと分かってはいるにしてもいくらなんでもこれでは安全管理違反ではないかと憤慨するが、誰も何も言わないから、日常茶飯事なのかもしれない。いやおそろしい。

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原文1999.4.19
改定2020.10.8



11.アメリカのスーパーマーケット
―ニューポートニューズ


その街のことを知りたかったらマーケットを覗けという。ぼくはその通りだと思う。だから旅をしたときは市場と、あれば漁港を必ず覗いてみる。ニューポートニューズーでスーパーマーケットを見る機会があった。もちろんわざわざ見に行ったのではない(何せこれを信奉している人は少ないのだ)。たまたま昼食を予定していたレストランがもう廃業していて、しょうがないから近くのここをちょっと覗いてみるか、というのが本当のところだ。

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なにしろ規模はでかい。それと店に入って気のつくのはバラ売りがかなり多いことだ。日本だったら包装してあるものがほとんどといってもいいのだが、特に果物などはかなりきれいなものもバラで売られている。特に不揃いなのか色がまちまちなのか、大きな荒い大箱に入ったリンゴなんぞは59セントと書いてある。

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日本だったら1㎏単位だろうがここは米国だ。ヤードポンド法の国だが1ポンド(約450グラム)単位ということもあるまい。なにしろ当時の相場で1ドルが102円ほどだ。59セントは60円にあたる。仮に10ポンドとすると約4.5㎏で60円ということになる。まあ大体そんなところだろう。

お菓子のコーナーでパウンドケーキを売っている。これは1個$3.99だ。407円、まあ400円とみればいい。これがでかい。直径が30センチとは言わないが、まあそれに近い。高さもある。アメリカ人の食べっぷりからするとこれでも一家で余ることはあるまい。そう思えばやっぱり安いんだろうな。

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それとハム。彼らの主食でもある肉製品だが、これは大きい。直径30㎝は間違いない。値段を見ると正規で$14.32、まあ1500円だ。ことろが、安売りをしていて$8.24という。これだけの大きなハムが安売りとはいえ840円だから、うーんといわざるを得ない。体の大きさと主食原料の概念が違うのだろう。

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実はぼくの仕事の専門部門の一つがナチュラルミネラルウォーターの国際規格だった。これのホスト国がスイスで、衛生部会のホスト国がアメリカだったからワシントンDCに来る機会も多かったのだ。そのためにどうしてもこういうところに来るとミネラルウォーターを覗かないわけにはいかない。自慢げに言うわけではないのだが、アメリカ人はそもそも水に関しては水道水を信頼しない。そのために以前から工場で生産した大容量の水を自宅やオフィスに置くことが多い。これをピューリファイド・ウォーターというのだが、同時にスプリングウォーターという名がアメリカ人のお気に入りでもある。アメリカではナチュラルミネラルウォーターとは言わないのだ。

次の写真を見ると、スプリングウォーターと書いてある容器は1ガロンだろう。1米ガロンは約3.8リットルだから、95セント、つまり97円でこれが買える。下のエビアンやペリエを見ると多分500mlか600mlだと思う。これは$1.29,$1.19で、132円、121円となって、アメリカでも輸入品はかなり高いことが分かる。まあ、どうでもいい話だが、雀百までで、これはどうしようもない。

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夕食を取り損ねて、この後さんざん探した挙句、結局はホテル近くのステーキハウスに行きついた。ただものすごく混んでいて、おねえさんが何やら真っ黒な四角く重いものを渡して、「これがバイブレイトしたら戻ってきて」という。何だ、なんだと思ったら席が空いたことを知らせるバイブレーターだった。

今のコードレス掃除機の電池ぐらいありそうな大型の機器だったが、当時では混雑解消の先端だったのだろう。しかし広い駐車場でみんなと話をしているときにいきなりブルブルと震えだされるとあんまり気持ちのいいものではない。9ポンド(400グラム)のヒレステーキ、クラムチャウダー、スープ、サラダ、黒パンにビールと多彩だったが、レアで頼んだステーキの中心がまだ冷たかった。混雑すると専門店でもこんなことがある。

2020.10.18.



12.感激のチェリーストーン
―ボストン


10月10日、といっても1995年のことだが、ニューポートニューズから経由地のワシントンはダレス空港を飛び立ったボーイング737機は午後1時10分、ボストン空港に着陸した。ここからいよいよレンタカーによるニューイングランドの長旅が始まるのだ。

とはいってもまずはボストン。なにせここにはUSSコンスティテューションの母港だし、有名なボストン美術館には帆船模型の専門展示室がある。両手を揉みながらよだれを垂らしてもおかしくないところだ。取り敢えずわれわれのレンタカー、白いオールズモービルは長い海底トンネルをくぐって市内に駐車した。そこから地下鉄でアーリントン駅からガバメントセンター駅へ行く。

なにやら心当たりがありそうな中山さんの先導で由緒ありげな店に入ると、
「いやー、こんなことがあるのか!カウンターが空いている!!」
と突拍子もない声で彼がいう。

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ここは知る人ぞ知る、ユニオン・オイスター・ハウスというこの辺りが海岸線だった頃からある牡蛎屋さんで、今は有名なレストランになっている。午後のちょうどいい時間だったのだろう、半円形のカウンターには野球帽とひげを生やしたおじさん達2人がいるばかりで、われわれ5人が楽に座れた。これは稀有のことなんだそうで、目の前でカキを剥いてくれるのはこのカウンター席の特権なのだ。それ以外の席の分はとうに剥いたカキを皿に並べて山積みしてある。
「鮮度が違うんですよ、鮮度が!」
それほど高いとも思えない中山さんの鼻がかなり高くなる。でも、それだけのことがあるのはすぐに分かった。 

紺色の野球帽をかぶり、えんじのポロシャツを着た店のおやじは黙々とカキを剥き続けるが、カウンターは分厚いコンクリート造りで、客席の所だけがわずかに木の板になっている。

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山のように積んだカキの中で小さいものや、どうも訳は分かりかねるが眼鏡に叶わないのだろうか、かなりの数のカキを剥きもしないでぽいぽいとカウンターの下にある穴に投げ入れる。その昔、ここが海岸線だったので捨てたカキはそのまま海に入ったそうだ。それが今でも続いているとは。

6個一皿の剥き立てのカキにたっぷりレモンを絞り込み、つるりと口に入れると、とたんに海のにおいが沸き立つ。ジョッキのビールで流し込めば6個なんぞはあっという間に消え去り、さてお代わりとなったが、
「福田さん、チェリーストーンって知っていますか?」
と中山さんがいう。
「チェリーストーン?」
「そう、ピンク色の貝でシコシコして旨いんですよ、これが」
それそれ、美味いというものは先ず食べるにしかず、中山さんとふたりで注文する。出てきた貝はかなり大ぶりの赤貝と蛤のあいのこみたいなもので、薄いピンク色に輝いている。見るからに美味そう。

一口噛むと跳ね返すような弾力があって、ぐっと力を入れるとプチンとかみ切れる。とたんにうま味と海の香りが口いっぱいに広がる。
「うーん、こりゃカキよりも美味い!」
「そーでしょ、言ったとおりでしょ」
中山さんも満足そう。他の仲間はあまり興味をそそられなかったようだが、ぼくはいたく気に入った。

それからというもの、仕事でワシントンに行く度に、ステーキ屋だろうと海鮮料理屋だろうと、先ずこのチェリーストーンを注文することにしている。皆さんも機会があれば是非お試しあれ、ただし、先ずボストン産か、それもケープコッド辺りで採れたのかを確かめた方がいいようだが。

カキを食べ終わって昼というよりだいぶ遅くなってクインシー・マーケットへ行って勝手に見て歩く。周辺も内部も人々が集い、何やら素人楽団も演奏している。食べ物はうまそうで安い。アメリカのベーグルパンをかねがね食べてみたいと思っていたが、この時は買わなかったがあとで食べてみたら日本のよりおいしい。ぼくの焼くベーグルとはちょっと質は違うがそれぞれにいい。渡邊さんとふたりで、菓子を買ってみたがものすごく甘い。どうも程々ということを知らないね、と笑い合った。

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やがて地下鉄で戻ってコプレー・スクェア・ホテルにチェックイン。夜はパークストリートで中華料理を食べる。夜の街中は人気がほとんどなくちょっと危ない感じだが、こちらは多勢、それもよしか。

翌日、USSコンスティテューションを見てから再びクインシー・マーケット周辺を歩き、本屋で文献を探す。マーケットの周りは屋台みたいな商店になっていて、一番小さいの、と言いながらTシャツを買った。それでも実際に着てみるとかなり大きい。

やがて街の高級アパート群を通りながらセイレムに車で向かったのは、午後も大分過ぎてからだった。

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原文1997.6
改定2020.8


13.USSコンスティテューション
―ボストン―


ボストンといえば、われわれが真っ先に思い浮かべるのがUSSコンスティテューションだ。1797年進水のフリゲート艦で52門という重装備をしている。頑丈に作られているので木造船でありながら「オールド・アイアンサイド」というあだ名を持っているのは有名な話。

ぼくは1983年の10月に彼女に会っている。なんといってもアメリカ海軍の現役艦で、動態保存されているから海に出るとまことに格好がいい。

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10月11日の9時45分にはもうこの船の前にいた。ところがすべてのヤードが外され、マストもトップマストまでしか残っていない。もちろん公式の艦内見学もないし、前回のように案内してくれる水兵さんもいない。ただ修理中のマストだとか、カノン砲などがそこら中にごろごろしていて、近づいてはいけないとはだれも言わない。もっとも$4を払ってちゃんと見学チケットは持っている。

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これ幸いと周辺をみんなでウロウロした。修理の終わったカノン砲やカロネード砲がゴロゴロしているが、丸裸の状態でこんなに近くで見るのは初めて。こうやって艤装が剥がされてみるとこの船が何だか小さく見えるからおかしい。どうやら大砲の修理は終わったようで、これを吊り上げて艦内に戻しているようだが、今はクレーンを使えるけれども昔は大変だっただろうなと思う。

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甲板に上がって見ると24ポンドカノン砲はハッチぎりぎりで、かなり大きい。もっとも昔だったら台車と砲身は別々に入れたのだろう。この大砲の飾りの部分の上に突起があって、その前に写真ではちょっと見にくいのだが矢印が下向きに刻んである。そこにいた人の説明だとこれは英国海軍の放出品という意味だそうで、コンスティテューションがその大砲を使っているのがおかしい。なぜ英国の放出品がアメリカにきたのかわからないがいろいろ事情があったのだろう。

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下には取り外したヤード類が並んでおいてあるが、始終手入れをしているから金属部分はしっかりしているが、やっぱり木部は相当傷んでいる。これは取り換えだなあとみんなそういう。ヤード類の修理はこれからのようで一杯並んでいるが整備されたものはない。切り離されたマストの上部だろうかよく見るとかなり太い。

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この船の模型を作った人は良くわかっているのだろうが甲板からマストを見るとフトックシュラウドは下部をまとめて甲板まで引っ張って固定いる。普通は下部の両舷を水平にロープで結ぶのだが、こんな構造があるとは知らなかった。甲板の継ぎ目の修理も進んでいて、今ではもちろんタールではなくゴム様のものを使っているらしい。また明り取りだろう、これも修理中なのか柵で囲ってあったりする。平気で修理中の艦に入れてくれるのが珍しくて、普通の見学よりも面白かったねえ、これが大方の意見だった。

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この船の主要諸元が掲載されていたのでここに挙げておこう。どうもネットで見るのとはいくらか違う。

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もう一つ面白い表があって、給料(年俸)に関してなのだが当時(1812年)と現在(多分1990年代)を比較している。円相場を1㌦102円として、現在に換算する数値も入れておこう。

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こうして見るとどうもいかにも安いような気がする。英国海軍の18世紀ごろの艦長の給料は(まあぼくのいい加減な基準なのだが)年俸に直すと324万円から1368万円だった。それから見ても少し安いと思うが、昔から軍人の給料はひどく安いというのが定説だから、まあこんなものかもしれない。
2020.10.19.



14.ボストンとジュネーブを結ぶ弦
― ボストン ―


この6月下旬のこと、ジュネーブで開かれた会議の合間を縫って、時計博物館を見てきた。さすが時計の国のスイスだけあって、小さいけれども緑に囲まれたこの博物館は街中とも思えない良さがある。その2階だったか、一隅に長さ40~50センチほどもあろうか、鉄製の弓が立て掛けてあり、よく見ると小さな板の上に弦の絡まった心棒があって薄い歯車が固定され、7ミリぐらいのバイトがそれに接している。「ヒャー、これだ!」思わず日本語で素っ頓狂な声を上げてまわりの青い目を驚かせたのだが、これにはそれなりの訳があるのだ。

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アメリカ東海岸を旅するわれわれ5人の最大の目的の一つは、ボストンにあるUSSコンスティテューションの見学だった。朝もやが立ちこめんばかりの時間にネイビーヤードについたわれわれを待っていたのは上部解体中のコンスティテューションで、通常の艦内見学とはまた別の意味で大変面白かった。その後われわれは、向かい側に係留されている第2次大戦の記念艦、駆逐艦カッシンヤングを横目にしてコンスティテューション・ミューゼアムに入った。カッシンヤングは前回ゆっくり見学している。

この博物館はコンスティテューションの部分カットモデル(原寸大)や本物のファイティングトップなどわれわれの興味の対象がごまんとあるのだが、その一隅にモデルシップを製作するコーナーがある。コーナーといっても低いパーティションで区切った一坪ほどの小じんまりしたもので、ちょっと気むずかしそうな痩身の老人と、これぞアメリカ人という感じの大柄なおじいさんの2人が作業をしていた。ウィリアム ブローメルさんとフランク クレメンツさんという。「われわれもシップモデラーだ」といったら、フランクさんが「そりゃいい、まあ、入んなさい」といってくれた。

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有難いのだが、5人も入ると身体を回すのにも苦労するぐらい狭い。フランクさんはコンスティテューションの製作で、もうリギンに掛かっている。ウィリアムさんのは構造モデルの漁船とおぼしきものだが、これが凄い。もう3年もやっているのだがというが、まだ上部構造物の制作中だ。直径が1㎝ほどのコンパスには目に見えないくらいの針が回るようになっていて、誰かがビナクルを持ったら触るな、と叱られていた。

そのウィリアムさんの木工旋盤が、5センチ幅ぐらいの板を固定して、その心棒を弓の弦を動力として動かすあの方式なのだ。ゆっくりそれを動かして見せながら、彼は動力旋盤なんぞ邪道だという。なるほどゆっくり小さな細工をするにはこれが好適かもしれない。鈴木さんは「イャー、目から鱗が落ちた!」と感激していたが、彼は目にたくさん鱗を持っていて、ときどきそれを落とす。

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中山さんがそれはあなたのアイディアなのかと聞くと、彼はいやいやこんなのは時計の細工の真似で、この本にでているよ、とその本を見せてくれた。どこの本屋でも売っているというウィリアムさんの言葉を信じて、中山さんと2人でボストン市内の本屋を探してみたが、とうとう見つからなかった。それでもどこかぼくの頭の中に残っていて、ジュネーブの時計博物館でその原型を見つけたとたんに素っ頓狂な声を上げたというわけだ。

ウィリアム・ブローメルさんはコンスティテューション博物館のパンフレットにも写真が載っているかなり有名な人らしい。もしここを訪れる機会があったら、のぞいてご覧になるといい。気難しいが、やりようによってはとても親切に教えてくれるはずだ。

原文1997.7.2.
改定2020.10.19.  


米国東海岸 海事博物館巡りの旅(後編)へつづく









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