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14-3.記号のリアリティ

『動画で考える』14.動画が作るリアリティ

財布の中にある「お金」を目の前に並べて、それを動画で撮影してみよう。

あなたの財布からお金を取り出して机の上に並べてみる。10円・20円、100円・200円、1,000円・2,000円、10,000円・20,000円・・・これを使って買い物もできるし、食事もできる、紙幣は何枚かの硬貨と交換できるし、銀行に預ければその金額は通帳に記帳された数字になる。お金とはそういうものだ。

お金を動画で撮影してみよう。ポケットから小銭をつかんで取り出す、折りたたんであった紙幣のしわを伸ばして、表裏や上下をあわせてまとめてみたり、貯金箱を揺すって聞こえてくる音で硬貨の枚数を想像してみたりしてみる。あるいは、家族の誰かからお金を手渡されたり・手渡したり、外に出かけてお店の店員さんとお金のやり取りをしたり、路上に落ちているお金を拾ったり。そんな、お金そのもの、お金の状態、移動、扱われ方を動画で撮影してみる。

もしあなたの家に、おじいちゃん・おばあちゃんが同居しているか、昔使っていたタンスか何かがあれば、いまはもう使えない古いお金が見つかるかも知れない。これは現在は使えないお金で、買い物したり、交換したりすることはできない。もしかしてそれはあなたがはじめて見るお金で、表面に刻まれている文字も金額の単位も見慣れないものかも知れない。硬貨のあるものはずっしりと重みがあって、変色したりすり減ったりしていて、新品の状態も想像できない。紙幣も、しわが寄ったり破れて一部が欠けていたり、サイズもいまの紙幣とはまるで違う。

「お金」の物質としてのディテールを、動画撮影を通して観察してみよう。

お金は交換可能な価値を持っているが、お金を撮影した動画には、交換できないお金の属性が写っている。普段はお金を、交換して流通させるものとしてしか認識していないので、いちいち、きのう財布に入っていたお金、きょう財布に入っているお金、というようには区別しない。おばあちゃんにもらったお金とおじいちゃんにもらったお金を区別するのはその金額だけで、実物が入れ替わってもそんなことは気にしない。銀行に預ければただの数字になってしまう。

古いお金ほど、その一つ一つの違いが際立っている。新品同様のものもあれば、錆びたり変色したり焼け焦げたあとのあるものまである。お金は水に濡れたり、投げつけられたり、場合によっては火災に巻き込まれて焼け焦げたりする。それぞれのお金にはものとしての来歴があって、そうした属性は交換できないものだ。

普段何気なく使っている目の前のありふれたものを、改めて動画で撮影するということは、交換可能な価値としか思っていなかったものの、交換不可能な固有の属性を再認識する、という意味がある。

「読書体験」を動画で撮影するというテーマで、何をどう撮影するのか考えてみよう。

ある作家の小説は、同じものが雑誌に掲載されたり、単行本になったり、文庫本になったり、電子書籍になったりと、さまざまな形で世の中の人びとに読まれる。文章として書かれたその内容が重要なのであり、その媒体が何であれ、その違いはあまり問題にはならない。

しかし実際には、単行本を買ってきて自宅でそれを読むこと、その本を何日も持ち歩いたり身近において手に触れたり、書棚に立てかけて置いたり、その本はここにしかない固有の物質だ。それは小説そのものではないが、小説に付随する体験の一部をなしている。同じ小説を提供する媒体でありながら、本はその物質性が際立っている。どうしても小説を読むことと分かちがたい「読書体験」とでもいうべきものがそこには発生する。

「読書体験」を動画で撮る、といったときに、「本」の物質性や人それぞれの読書のスタイルといったものが動画に映し出されることになる。文字情報は、紙にのったインクの集まりとして、電子書籍であればモニターのドットの点滅として表示される。部屋に寝転がって、電車の中でその文字情報を目で追う。一度にたくさんの文字を読むこともあれば、数行読んで目が疲れ、本を閉じてしまうこともあるだろう。

「お金を数える」「本を読む」といった言葉で示された通りに、日常生活のさまざまな営みを繰り返している限り、目の前にあるものごとのディテールはそれ以上には見えてこない。しかしそうした行為を動画に撮ることで、そのような単純に見えたことのすべてに、個別のディテールがあって、そうしたものの集積が、私たちの体験を構成していることに気が付くだろう。

「小説を読むこと」「音楽を聴くこと」は、「小説体験」「音楽体験」とでも言うものと分かちがたく一体になっている。それは無意識のうちに体験しているが、そうした体験がトリガーとなって「小説」や「音楽」の一節が、なまなましく思い出されることはよくあることだ。

「小説を読む人」「音楽を聴く人」を撮影するときに、その周辺の状況まで取り込んで動画を撮影してみよう。そうした行為の当人からすれば、集中するのに不要なノイズは遮断され無視されるだろう。しかし、動画はそのノイズも「体験」として記録する。

それは不要な情報だろうか?それもまた日常生活を構成する体験の構成要素であることには間違いないのだが。

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