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9-2.音と映像のずれ

『動画で考える』9.音を撮る

2箇所の異なる場所で収録した映像と音を組み合わせて視聴してみよう。

2箇所のまったく異なる場所で撮影された動画の、音声だけを分離させて互いに付け替えてみる。

それぞれの場所が似通った住宅地や公園だった場合は、動画の視聴者はその付け替えにまったく気が付かないだろう。動画が収録するのは、完全に固有な場所であり、その場所を構成する固有のディテールの集合体なので、正確に分析すれば判別可能かも知れないが、私たちは動画をそういった精緻なレベルで視聴しているわけではない。むしろ極めていい加減に、表面的な印象をなぞっているに過ぎない。

画面では誰も泣いていないのに、子どもが泣いている声が聞こえてきたとしても、それを疑問に思わずに、自然なこととして受け止めようとする意識が働く。画面には映らない場所で子どもが泣いているのだろう、と無意識に理解してしまうか、画面に映っている子どもは泣いていないように見えるが本当は泣いているのだろう、と強引に思い込んでしまうか、といったところだろう。

もっとギャップのあるシチュエーションを組み合わせてみたらどうだろう。人の少ない山中の画面と人通りの多い街の喧噪の音声を組み合わせてみる。違和感は感じるだろうが、そんな場所もあるのだろうと思い込むかも知れない。そして偶然、画面に映っている木々が揺れたことと、街の中のノイズが一致したことで、最初に感じた違和感は消えて、その画面と音の組み合わせにリアリティを感じることとなる。画面に別の場所の通行人の話し声が重なると、そこにはいない誰かが通り過ぎたかのように感じることさえある。

つまり、音と映像を組み合わせて受け止めることに慣れているわれわれは、どうしても両者を引き寄せて理解しようとしてしまう。その組み合わせがずれていれば、ギャップを埋めようとして、考えを巡らせる。それは生まれつき、目の前に見えることと、聞こえることが一致した世界で生活してきたわれわれの体に染みついた習慣だ。その組み合わせがフェイクであっても、簡単にだまされてしまうのだ。

映像と関係のないナレーションを組み合せて動画を作成し、視聴してみよう。

動画を撮影しながら街中を歩いて「ここは私が住んでいる街だ」「ここは駅の近くの繁華街で日中は人通りがとても多い」「江戸時代には宿場町として賑わった」「歴史上の人物がこの辺に多く宿泊して、その記録が残っている」などと、空想の設定でナレーションを付けたとしても、画面はそのように見えてくるし、そんなこともあったのだろう、と視聴者は考えるだろう。それは事実とは異なることだが、動画としては矛盾がないし、事実として見えてしまう。

そのような映像を見たときに、あなたの頭の中で、映像と音声をどのように結びつけようとするか、観察してみよう。撮影者が住んでいると思われる何かが写っているか、繁華街と感じさせるような音が聞こえてこないか、むかし宿場町だったことがうかがえる街の雰囲気がどこかに残っていないか、など。なにかちょっとした画面の細部が、例えば路面の色とか、周辺の建物の壁の色とか、通行人の発した声とか、そんなものが、ナレーションと繋がって、本当らしさの印象を作り出す。

あるいはもっと感覚的な要素が画面の印象を変える。雨の降っている音がすれば、雨が降っているように見えるし、自動車が通り過ぎると、なんだか走行音が聞こえたような気がする。ドスンという大きな音がすれば、身をすくめて音の方向から体を反らそうとするし、誰かから声をかけられればそちらに振り向いてしまうといった条件反射のようなものだ。

画面と音のギャップが小さければ、反射的に状況を把握することが出来るが、ギャップが大きい場合には、思考回路がフル回転してその状況の辻褄を合わせようとする。

映像と音のズレが生む効果で、見えないものを感じさせる動画を作成してみよう。

動画の中では、見知らぬ男女が激しく口論をしており、互いに殴りかからんとするのを必死で押さえている様子だ。立ったり座ったり、部屋の中を歩き回って、怒鳴り合っている。しかし、そこに重ねられたナレーションは老女の声で、若い頃の昔話をしている。自分が過ごした時代や場所の話、家族や友人の話、仕事の話、いずれも幸せだった頃の思い出で、口調も穏やかだ。映像と音声の間の関係が見えないし、どんなに慎重に理解しようとしても、その糸口がない。

そんな場合でさえ、視聴者はそのギャップを埋めようとして、あれこれ頭の中で想像を巡らせる。若い男女と老女との関係、老女の過ごした時間・場所と動画に映し出された時間・場所に一致する点がないか、ほんのかすかな痕跡やきっかけが見つからないか、じっくりと観察する。意識的にそうするというより、そんな動画を見ていると自然にそのように頭が働き始める。

映像と音の、調和のとれた正しい組み合わせは、一つの答えを示している。視聴者はそれを見て、ただ当たり前のこととして受け止め、それ以上に思考を深めようとはしない。動画の中に示されたちょっとしたずれや違和感は、一つの謎であり、視聴者はそれに対して思考を深めることになる。ずれは調整しようとするし、欠落は埋め合わせしようと考える。

だから音声は映像を補足説明するためのものではなく、むしろ映像に対して謎を投げかけるようなものであるべきなのだ。

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