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9-3.「音楽」を撮る

『動画で考える』9.音を撮る

あなたは「音楽」を記録した動画を観ているのか、「音楽」を聞いているだけなのか

ある動画に「音楽」が付いていて、画面を見ながら「音楽」を聴くという体験。そこで感動したあなたは動画に感動したのか、「音楽」に感動したのか。

動画がなくても、そもそも、その「音楽」が気に入って感動したのかも知れない。それは目を閉じて耳を澄ませばわかることだ。あるいは「音楽」を付けずに、撮影時に収録した動画と音声のみをもう一度視聴してみる。それでも感動するのか、何か味気ない動画になってしまうのか?

それぞれの「音楽」には固有のリズムや展開があり、一定時間、聴くものの興味を持続させるような構成がある。また「音楽」は聴くものの記憶や体験と密接に繋がっていて、ある曲を聴くと過去の出来事がありありと思い出される、といったきっかけにもなる。ある時代に流行した「音楽」だけで構成されたプレイリストを聴けば、反射的にその時代の記憶が蘇るし、そんな音楽を介せば、同世代の仲間ともその当時の記憶を容易に共有することが出来る。

そのような「音楽」を動画に付ければ、脈略のない動画の切り貼りでさえも、まとまった一連の作品のようにも見えてくる。ある箇所では動画の内容と「音楽」がシンクロして、何かドラマティックなことが表現されているように見えるかも知れない。友人の何ということもない横顔が、何か感傷的になって思い詰めているように見える、といった演出効果もある。

多くの場合、動画を見ているつもりが、いつの間にか「音楽」を聴くことが主体になってしまい、動画を「音楽」の一部として見ているという、逆転現象が起こる。音楽のプロモーションビデオを見慣れた私たちは、ついつい「音楽」を鑑賞するように動画を鑑賞してしまう。

オーケストラの演奏を動画で見る、ロックバンドのコンサートを動画で見る、という場合にも、そこで演奏されている「音楽」を聴くことが主体であり、その一部として動画も見ている、動画は「音楽」の印象を補完する役割を果たしているだけだ。

物質あるいは現象としての「音楽」

それでは「音楽」を撮影した動画でありながら、あくまで動画であり続けるようなものとはどんなものだろう。そこからは「音楽」も聞こえてくるが、いわゆる「音楽」を鑑賞することを拒絶するような動画。そこに記録されているのは、物質あるいは現象としての「音楽」だ。

あなたが「音楽」を聴いている様子を私が動画で撮影している。あなたはその「音楽」が作り出す世界に心をとらわれているが、私はあなたと「音楽」の位置や距離・関係を撮影している。「音楽」作品の生み出す魅力に取り込まれないように、距離をとって、その「音楽」を取り巻く現実空間ごと動画で記録する。

ミュージシャンが楽器を演奏している様子を撮影する場合。演奏という行為や楽器をあくまで即物的に観察し記録する。指で弾かれる弦や、スティックでたたかれて反響する金属片や木片、さまざまな材質・サイズの管を呼気が通過して奏でられる音、そういった物質のさまざまな変化。目の前に確かな実体があって、さまざまなテクニックによってその素材や重量や運動が検証されていく様子は、見る者に驚きと感動をもたらすだろう。それはいわゆる「音楽」鑑賞とは異なる、動画で表現された「音楽」がもたらす感動だ。

動画と「音楽」は、相性が良いようでいて、組み合わせると動画は簡単に「音楽」に取り込まれてしまう。そんな場合には「音楽」をブツリと中断してみよう。それまでは「音楽」の添え物でしかなかった動画が、「音楽」を中断することで、突然、動画としての主体性を取り戻す。あるいは、「音楽」の音量を思い切り下げて、動画の背景でかすかに聞こえるぐらいにしてみよう。

自然の風景を撮影するような態度で「音楽」を撮影する

バンドやオーケストラの演奏を動画で撮影する場合、「音楽」を鑑賞するように撮影するのではなく、例えば、自然の風景を撮影する様な態度で撮影してみよう。

一人で山の中へ分け入って、道なき道を、木の枝を押し分けながら、厚い層になった枯れ葉を踏みしだき、岩山や急流をも踏破しながら撮影を進める、そのようにロックバンドの演奏を撮影してみよう。ステージ上で繰り広げられる激しい動作や、楽器に対するさまざまなアクション、身体と物質の渾然一体となったせめぎ合いは、いわゆる「音楽」の鑑賞とはまったく異なる、動画ならではの感動を呼び起こすだろう。

同様にオーケストラの演奏風景は、たくさんの職人たちが集まって作業する、大規模な工房のようなものとして撮影してみよう。もしあなたが「音楽」という概念をまったく知らなかったとしたら、オーケストラの演奏風景は、さまざまなタイプの工芸品を生産する工房の様に見えるかも知れない。

動画を通して、「音楽」を鑑賞することも、「絵画」を鑑賞することも可能だ。しかしそれと、動画で「音楽」を記録し鑑賞すること、動画で「絵画」を記録し鑑賞することは全くの別ものだ。しかし多くの場合は、「音楽」を鑑賞する様に動画を撮影してしまうし、「絵画」を鑑賞する様に動画を撮影してしまう。そうすると、ここでも目の前で繰り広げられている「音楽」や「絵画」の実体が見えなくなってしまう。

ビデオカメラはカメラの前にあるものを等しく記録し再生することが出来る。そのために、○○動画というように、ほかのメディアや表現と組み合わせて語られることが多くなる。しかし、動画は「音楽」ではない。動画は「絵画」ではない。動画は「ドラマ」ではない。動画は「イデオロギー」ではない。そのように定義を重ねる事でしか、動画の本当の可能性は見えてこない。

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