![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/48526545/rectangle_large_type_2_d4cbb7bf60be19be498df442e8cb9f99.jpeg?width=1200)
ストリーミング解禁記念 専門家じゃない立場で大瀧詠一を思う
どうも。
では、かねてから約束したとおり、
サブスク解禁記念ということで、大瀧詠一に関して語ってみようかなと思います。
ただ、とはいうものの、僕、そこまで思い入れは深くはないんですよね、実は。でも、そうはいっても、一応キャリアの概略は昔から知ってる。そんな感じです。
だから、「思いついたはいいけど、そんなに面白いこと言えないかも・・・」という感じではあるし、でもだからこそ、「あえてちょっと耳に痛いこともいう感じ」なども含めてやっていけたらと思います。大瀧さんって、ちょっと「みんなでマンセー」的なとこは若干、僕も引っかかってるところではあるし、そればっかりでも面白くないじゃないですか。でも、だからと言って、音楽的レガシーを貶める気も全然ありません。あくまで「客観的に行きたい」、ただそれだけです。
まず、僕が大瀧詠一さんを知ったのは
やっぱり子供だったので「出前一丁」のCMソングを無意識に聞いたこと、あと、うなづきトリオの「うなづきマーチ」の作者だということでしたね。実際、「うなづきマーチ」ではじめて名前を聞いた後に
ナイアガラ・トライアングルの「A面で恋をして」のリアルタイム・ヒットで知りましたね。佐野元春と杉真理との共演ですね。82年だったかな。キヨシローと教授の「いけないルージュマジック」とか山下達郎の「甘く危険な香り」と同じ頃に知りましたね。中学入る直前くらいだった気がします。
で、僕はこっちで先に知りましたね。「Each Time」。これ、当時のFM、FM雑誌ではすごく話題になりましてね。「ロンバケ」のあとということもあって。僕がロンバケだと81年、少6だったんですけど、もうその頃、洋楽ばっかり聴いてて邦楽にそんなに気が回らず気がつき損なってたんですけど、84年のこっちのアルバムで知りました。
ただ、この当時、達郎、ユーミン、サザンって、「大学生の兄さん姉さんの音楽」のイメージがあったので、ちょっと敬遠してました(汗)。僕の年代で聴く音楽ではないんじゃないかな。そんな思いでしたね。だから、85年からのバンドブーム期のアーティストほどには思い入れなかったことは事実ではあります。
あと、森進一の「冬のリヴィエラ」とか小林旭の「熱き心に」書いた人というのでも知ってて。そのときですね。「スペクター・サウンド」うんぬんという話も小耳に挟んだのは。それで「ふーん」という感じでしたね。
で、ちゃんと意識して聴くようになったのが
やっぱ、はっぴいえんどですよね。大瀧さんが印象に残ったという意味では、「風街ろまん」よりはファーストの「ゆでめん」の方ですね。このときが大学を出たばっかりでしたね。NHKの資料室にあった「風街」との2in1のCDで聴いて。このときの方が、なんかギターがサイケデリックでちょっとグランジの遠い元祖みたいな感じ、あったじゃないですか。
そこはやっぱり
モービー・グレイプとかバッファーロー・スプリングフィールドをフェイバリットにあげて、はっぴいえんどの影響源にしてたわけじゃないですか。グランジ、ガレージ、サイケで洋楽の60s掘ってた僕にはそういう方面が都合良くてですね、まずはこの辺のサウンドがかっこいいと思って、「のちとずいぶんイメージ違ってかっこいいじゃないか!」なんてことを単純に思ったものでした。
で、結局、その後に「風街」のためた間とか、カントリー・ロック風のレイドバック・テイストもわかるようになるんですけど、僕はこの当時に聴いた大瀧さんの「ビートルズやストーンズのようなイギリスのバンドじゃなく、逆にビートルズやストーンズが憧れたようにアメリカのものを手本にしたい」みたいな感性で、当時の日本人的には間違いなくマニアックだったモービー・グレイプとかバッファローを手本にした」、という話にすごく惹かれましてね。その当時、まだ渋谷系の影響が強い時期、1993〜94年ですからね。あの当時、やっぱりフリッパーズがネオアコやマッドチェスター、プライマル・スクリームという、マニアックな感性でしかもタイムラグなしで新しいことどんどんやってきてたんですけど、「ああ、そういうマニアックな先進性という点において、はっぴいえんど、にてたんだなあ」と思うようにもなったりしてですね。そこで惹かれたわけです。
で、90年代の後半、時期が詳細に思い出せないんですけど、僕がNHKのディレクターをやってたときに大瀧さんがスタジオにやってきたんですね。たしか1回目が「ポップス史を語る」というもので、その次が萩原健太さんのラジオの番組のゲストですね。あの時点で「幸せな結末」、まだ出てなかった気がするんですよね。僕は直接担当じゃなくて、「見学行っていいですか」でスタジオ覗きにいった若手社員で、DJブースにたしかお茶だけ運びにいって軽く会釈だけした記憶があります。
が!
そのときの印象が、正直、あんまりよくなくてですね(苦笑)。
これ、すごい僕の好みの問題なんですけど、なんか、このときの大瀧さん、隠居親父化して、野球の話がメインで(笑)、たまに音楽。1回目のポップス史のときは音楽の話は当然してましたけど、それもなんかいわゆる「戦後昭和の作曲家」の話でそれはそれで勉強にはなったわけなんですけど、でも、個人的に物足りなかったのは「で、結局、今の音楽シーンとどうつながるの」、この説明が全くなく、大瀧さんが最新の音楽とかで何を聴いてるとかが全くわからなかったこと。これが実は不満でした。
僕の好みの問題で恐縮だとは思うんですけどね。僕の場合、仙人みたいなタイプよりは、いくつになっても作品出しては積極的にツアーして、最新の面白いアーティストにもいち早く目をつける、そういうタイプのアーティストを尊敬してるんですよね。例で言うと、晩年にLordeやケンドリック・ラマーを抑えて聴いていたデヴィッド・ボウイだったり、フィービー・ブリッジャーズの大ファンを公言するエルトン・ジョンとか。そういうのが理想のタイプなんですね。だから、そういう僕からしたら大瀧さん、すごく過去に閉じこもって見えちゃったんですよね。
ただ、「じゃあ、音楽が嫌いか」と言われたら全然そんなことはなくて
このあたりの曲を健太さんの番組の見学で聴いて「ああ、はっぴいえんどからロンバケのあいだってこんな感じだったんだな」と思った次第です。
これは僕にとってもタイムリーで
ちょうど僕がドクター・ジョンとかリトル・フィートの、ニューオーリンズ・ファンクに影響を受けたタイプの70sのアメリカのロックを掘り下げようとした頃で。「ああ、まさにそういうことを、アメリカとタイムラグなしでやろうとしてたんだな」ということがわかってすごく興味深かったんですね。特にリトル・フィートの場合は、名作「ディキシー・チキン」のレコーシングがはっぴいえんどのラスト・アルバムの「HAPPY END」とLAでの録音時期が近く、ローウェル・ジョージもレコーディングに参加したりで「へえ」となったりもして。やっぱり、75年の「ナイアガラ・ムーン」には、その当時のアーシーなルーツ志向のアメリカン・ロックンロールと共鳴するところも感じられて。そこに興味も持ちましたね。
で、しばらく大瀧さんをきかずにおいた2021年、
名作「A Long Vacation」をはじめとしたナイアガラ作品が一挙にストリーミング解禁となったわけです。
僕は「ロンバケ」には実はちゃんと向き合ってはいなかったんですね。もちろん「君は天然色」「恋するカレン」「さらばシベリア鉄道」は個別に聴いて知ってたし、そのほかの収録曲もかじってはいたから擬似的に聴いてはいたんですけど、頭から最後まで通して聴いた経験が実はなかったんですね。だから今回、すごく楽しみだったわけですけど
すっばらしかったです!
この頃から、たしかにフィル・スペクター色、強くなりはするんだけど、それだけじゃない。しっかり、その当時のエイティーズのレコーディングの音でAORと共鳴する感じでそれをやっている。しかも、リズムのグルーヴはしっかりロックンロールを感じる。そして、タイムレスに音質がとにかくいい。そこにはしっかりとした音楽の温故知新があり、鑑賞してよし、身体動かして踊ってもよし。言うことないですね。日本における、ビーチボーイズの「ペット・サウンズ」のような存在感を感じたし、実際、日本のアーティストや批評家の本作の扱い方を見るに、まさに「ペット・サウンズ」に欧米のアーティストたちが畏怖を持って接する姿と、なにかにてますね。
その美学は、その次の「Each Time」でも生きてますね。こちらもエイティーズ的なレコーディングの感覚のまま高度にスペクターやってて。グルーヴ感が、こっちの方がロンバケより気持ち落ちるんですけどね。
で、ロンバケ、Each Timeの両方で素晴らしいのは大瀧さんの歌声ですね。はっぴいえんどからソロ初期では出せなかったようなハイノートをすごくきれいに出せるようになってて。これもやっぱり聞き応えが増した大きな理由のひとつですよね。あと、「が」が「んが」ってなる、綺麗な鼻母音ね。これが盟友・松本隆さんの日本語をすごく流麗につむいでいて、それも美しいです。
やっぱり、このあたりは大瀧さんの創造のピークですよね。
が!!
どうして、これがその後、続かなかったの???
これがねえ。個人的に、ものすごく謎なんですよね。なんで、ここまでの作品作れて、70sの頃には最新の音楽への感性も最高に研ぎ澄まされていた人が、なんでこの後、極度に長い長期の隠居に入ってしまったのか。
このエイティーズのセルフ・カバーだったり、90s後半に突如復活して飛ばしたヒットの「幸せな結末」とかは、やっぱり正直、好きじゃないんですよね。さっきも言ったような、スタジオで見学した時の隠遁オヤジ化した大瀧さんのイメージとどうしてもオーバーラップしてしまって。
このあたりがなんか「ただのスペクターおじさん」化してて、曲にキレがないというか。僕、こないだスペクターの追悼記事、殺人事件とそれ以前からのピストルの奇癖に遠慮せず、「よくないことはよくない」とはっきり書いたくらい、あまり心酔する対象としておすすめできない気持ちもあるからですけど、ここまで無邪気な感じでスペクターやられると、やっぱりそれはそれで抵抗あるんですよね。ロンバケやEach Timeみたいに、あくまで「その当時のリアルタイムの音楽」として表現したものならいいんですけど、そこのところの時代感覚が見えなくなったまま懐古趣味的にスペクターやってるのがどうしてもひっかかりはしたんですよね。
あと、「あそこまで音楽的に先進的だった人でも、こういう感じになっちゃうんだな」というところに人間の不思議さを感じて面白くもあるんですけどね。たしかに大瀧さんの場合、凝りだすと過去に過去にいきがちなところは若い時からあったし、活動ペースにしても「ナイアガラ立ち上げて作品占いといけないタイミングでノヴェルティの作品作って不発に終わっていた」というおっとりしたエピソード聴いたりしても、「このせかせかしないおおらかな感じは、天才肌ゆえできることなのかな」と思ったりもして。こういうキャラクターは日本の音楽界ではめずらしいタイプなので、それはそれで貴重かもしれないですね。
ロンバケと、はっぴいえんど時代の盟友・細野晴臣さんのYMOの最高傑作「BGM」が1981年3月21日に同時に発売されているという事実を知りました。
この日こそが、
日本のポピュラー・ミュージックにおける「はっぴいえんど史観」を産み落とした日
に結果的になってしまったと僕は信じてます。それに値するだけの金字塔は作り上げた作品と瞬間であることを否定するのはなかなか簡単なことではないような気がします。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?