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ハリー・スタイルズが本来、グラミーにほど遠かった人だったことに関して

どうも。

グラミーの話、もうひとつしておきましょう。

一昨日の投稿でビヨンセが最優秀アルバム、AOTYをはじめとした主演部門が受賞できなかったことでまたも苦いグラミーになってしまったことは書きました。

 そこで

AOTYを受賞したのがハリー・スタイルズでした。

ビヨンセが取ることを望まれた状況で、びっくりした面持ちでステージに上がったハリーは

This doesnt happen to people like me very often

「こんなことは僕みたいな人に滅多に起きない」と言ったんですね。

それを受けて、「白人男性で得してるのに何言ってるんだコノヤロー」と怒った人がたくさんいた、という話です。

一言言っていいですか。

こんな馬鹿げた言いがかりは、ものすごくひさしぶりに聞きました!


あきれますね。だって、「僕みたいな人」というのに漠然と「白人男性」としか結びつけられない貧困な発想がおかしいじゃないですか。それ、人のことを人種的ステレオタイプでしか見てない、逆の意味で差別的な行為ですよ。

 じゃあ、ハリーという人がどういう人なのか、見てみましょう。

ご存知の方も多いように、キャリアのはじめはオーディションから生まれたアイドルですよ。

彼のいた、ワン・ダイレクション、2010年代に一斉は風靡しましたが、グラミー賞のノミネートなんて、ただの1回としてありませんよ。

なぜか。グラミーがアイドルに対して極めて厳しいアワードとして有名だからですよ。ソロ2作目の前作から少しずつノミネートされてきてますけど、それでも今でさえもアイドルのレッテルは張られ続けている人です。そういう人がグラミーで最大賞を受賞する。これ、マイケル・ジャクソンのジャクソン・ファイヴをアイドルとしてカウントしない限り、前例がないんです!このこと自体がかなり快挙だったんですよね。

くわえて

https://www.youtube.com/watch?v=qN4ooNx77u0

彼がソロになってからとっている音楽性はロックです。ロックなんて今、グラミーで需要なんてないですよ!

だいたい、ロック部門、オルタナティヴ部門なんて授賞式のテレビ中継の前に発表が片付けられてしまうんです。

彼は経歴のイメージ上、ポップ部門にされてますけど、ステージ見ても、前座選ぶセンス見ても、意識としてはかなりロックです。だから、自分の音楽性をグラミー向きだと思ってなくても全く不思議はないんです。

 アイドルでかつロック、たしかにそんな人がグラミーで大きな賞受賞した話なんて僕自身も全く聞いたことありません。だからハリー自身がびっくりして、「僕が取るなんて」といって全然おかしくないんですよね。

 僕がその説をフェイスブックでのこのネタが盛り上がってるところに英語で書き込んだら10数個のいいねをもらいました。それなりに支持された意見だったんだと思います。

 ただ、よりハリーの故郷のイギリスのメディア、僕が見たのはNMEのフェイスブックの書き込み欄だったんですけど、もう、ほとんどが当たり前のようにハリー擁護でした。そして、そこで彼らが話してたのは、ハリーの出自の話でした。

ワーキング・クラスの小さな田舎の村で、シングルマザーの母親を助けるためにパン屋で安月給で働いていたような子供が、音楽界の世界一の栄誉を得た、という意味だよね。


もう、この意見で普通に一致してたんですよ。さすがはハリーのことを「X Factor」のオーディションから見てたような国は、そういうところもしっかり見ています。

僕自身もそこまで詳しく把握してなかったんですけど、ハリー、出身、人口5000人くらいの、市じゃなくて村だったんですよ!これびっくりでしたね。

こういう感じだったんですよ。

 もう、これだけでかなり言いがかりだったことはわかるとは思うんですけど、それもこれも、「ビヨンセは黒人だから差別されて、ハリーは白人男性だから勝った」という、短絡的な方程式的な思い込みが生んだものだと思うんですよね。

 でも実際は、小さな町で、オーディションで注目されてなかったら今頃どうなってたかわからないような感じだったんですよ。白人の特権のことは「ホワイト・プリヴィレッジ」というんですけど、それがあてはまるような人生を歩めたかどうかは、運命による紙一重でもあったわけです。

 そして、皮肉なことに、ビヨンセがどういう子供だったかというと

ヒューストンの裕福な家庭の娘さんだったんですよね。お父さんは大企業の、アメリカでトップ2のセールスマンで、お母さんがファッション・デザイナー。グーグルのプロフィールでアッパー・ミドルと書かれてます。ミドルだけでも大したものなのに、アッパーつくくらいです。

それもそのはず、このノウルズ一家は、稼いだお金で音楽ビジネスはじめて、まだ10代だったビヨンセを家族ごと売り出しに動いて、それがデスティニーズ・チャイルドになってそのまま成功した。

さて、ホワイト・プリヴィレッジを使う例として、追及する側、される側、果たしてふさわしいでしょうか?

残念ながらそうじゃないですね。

ビヨンセ自身、そういうこと、わかってるんでしょうね。何回も主要部門で振られ続けながらも、人種差別がどうこうも、受賞できない不満なども言うことなく、ずっとにこやかにウィナーたたえ続けてるんですよね。「不遇だ!」と言って騒ぐのはあくまで周囲。でも、それに値する魅力を彼女が放っているからこそ、多くの人たちが「今度こそ!」と味方したくなるんですけどね。

あと、これは前にも言ったことですけど、ハリーという人はですね

こういう風に積極的にLGBTの支持を表明したりですね

自分のツアーの前座に、生演奏であることが前提のインディの女性アーティストを集中してつけたんですよね。ミツキ、アーロ・パークス。ウルフ・アリス、Wet Leg。彼女たちからもすごく感謝されていたりもします。音楽界におけるリベラルな貢献、すごくやってる人なんですよ。ホワイト・プリヴィレッジなんてとんでもないんですよ!

 とにかく、一部を額面上だけ切り取るんじゃなくて、全体のコンテクストから把握する。これはハリーの件だけでなく、どんなことにも必要です・








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