たまたま取った行動が「当たり前」になる
ゴールデンウィークはずっと屋内。ほぼ自宅です。それなりに遊ぶ計画も立てて、同時に第二領域や仕事も進めちゃいます。わりと前から、私は休みを利用して先回りしたり、エネルギーを蓄えたりと、「みんなが休んでいるあいだに」こっそりがんばることを当たり前のように行ってきました。
もちろん家族と一緒に出かけたり、友だちと食事したり、いわゆる「余暇」を楽しむことも忘れません。ですが、スキマ時間は必ずあって冷静に考えたら、ずっと遊び続けるほうが難しい。休暇中には必ず空き時間があり、それをいかにマネジメントして、かき集めて、まとまった時間を作るか。そこに醍醐味を感じます。
でもよくよく考えると、私の行動は変です。一般的には休みは休みとして、スキマ時間もリラックスにあてて、心身ともに回復をはかって休み明けの仕事や学校に全力を捧げる。休みはあくまでも、生産性をさらに向上させるための手段。仕事だけではなく家族や人生含めて、休みをうまく使える人は豊かさを手にいれられると思います。
ではなぜ私は、相対的に一風変わった価値観で「休み」を捉えるようになったのか?これはおそらく環境だと思います。仕事だけではなく学生時代も、私の周りにはなぜか猛烈にがんばる人がたくさんいました。学生時代ではオフにもかかわらずグラウンドでボールを蹴る先輩がいました。就職後も、休日出勤する上司のもとに配属されました。
「恣意の一貫性」という、行動経済学の理論があります。たとえば最初に世に出た商品の「価格」 これがいくら恣意的であったとしても、いったん私たちの意識に定着すると、それを当然のこととして受け入れます。つまり最初に提示された価格にアンカリングされるということ。私の価値観も、先輩や上司の行動を目の当りにして盲目的に受け入れ、当然のこととして処理するようになったのでしょう。
他人が前にとった行動をもとに、ものごとの良し悪しを判断して、それにならって行動することを「ハーディング」といいます。ハードとは「herd」と書き、「群集」の意。これも行動経済学の考えのひとつで、自分がとった行動をもとに、ものごとの良し悪しを判断することを「自己ハーディング」といいます。
一般的な価値観とはかけ離れた経験をすることで、「休みもがんばる」ことに疑問をもたず、すんなりと受け入れ、行動に移すことで、相対的には異質な価値観が、自分のなかでは絶対的な地位をもつことになった、ということでしょうか。
「これが雑用だって?塀を塗るなんて、なかなかさせてもらえないよ!」
というトムソーヤの言葉にだまされて、トムの友だちは嬉々として塀塗りを手伝い、次第に「おもしろさ」を獲得していきました。言うまでもなくトムは、シンプルに塀塗りの仕事をさぼりたかっただけ。つまり恣意的だった彼の発言が、友人の行動や思考に大きな影響を及ぼしたという寓意です。
ささいなことから、人生を左右する大きなものまで、私たちが選択するあらゆるものは、アンカリングが関係している。決して私だけではなく、皆さんもすべからく、不合理な行動をしている可能性があります。
注意深く生きてきたはずなのに、実は自分の人生が恣意の一貫性の産物だったとは、信じがたいですが行動経済学的には人間というものが、最初はなにも知らずにたまたまとった行動の総体でしかないと結論づけています。私は「休みもがんばる」という価値観を変えようとは思いませんが、直すべき不合理な習慣があるかもしれません。
自分がくり返ししている行動に疑問を持つこと。最初の決断の持つ力は、その後何年にもわたって未来の決断に影響をあたえるほど長く後を引きます。まずはみずからの弱点を自覚してみるといいかもしれません。最初の決断はきわめて重要、十分に注意を払うべきです。
進学、就職、結婚、転職、家の購入…
といった大きなものから
起床、就寝、食事、運動、余暇、趣味…
といった小さなことまで
いろいろと振り返ってみようと、窓越しに豪雨を眺めながらしみじみと。
久保大輔
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